法話の記録の最近のブログ記事

無縁社会と絆~現代社会の歪みをお釈迦さまの視点で見てみよう~(1h53m46s)をダウンロード

今月のDhammacastは去る2012年3月25日(日)に北九州市立男女共同参画センター(ムーブ)で開催されたアルボムッレ・スマナサーラ長老の講演会「無縁社会と絆」の音声を配信いたします。

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「笑っちゃおう」「笑顔で生きよう」というのは仏道なんです。如何なるものにも揺らがない心を持つこと、すべては無常であると認めて落ち着いて生きるということです。それが仏道そのものなんですね。仏道とは、何が起きてもニコッとこころから笑える心を育てることなんです。私たちには、美しい笑い、優しさにあふれる笑い、すべての生命が幸福であって欲しいという気持ちから生まれる「笑い」が必要なんです。」(当日の質疑応答より)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
人間関係~人はわがままです~(1h33m40s)をダウンロード


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久しぶりのDhammacastです。最近はUstreamでの動画配信が多くなってきましたが、音声配信も折を見て続けていきたいと思います。

今回はリクエストにお応えして、以前カセットテープで頒布されていたスマナサーラ長老のご法話をポッドキャスト配信いたします。1997年頃に大阪で行われた講演です。

「人間関係で失敗する人、成功する人。その差はどこから生まれるのだろうか。人間の根底に潜んでいる心の秘密を探り、人間関係を円滑にするための方法を説いた大阪講演のカセット」(当時のカタログより) 

※ボランティアの方のご協力で、ノイズ除去したファイルに更新しました。よろしければ再ダウンロードしてください。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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Mettā Bhāvanā : Meditation of Loving-kindness

(By Venerable A. Sumanasara Mahathero, Head , Gotami Vihara, Tokyo)


Many of us offend others without our knowledge and we tend to defend if questioned or refuse to accept the charge. Yet, we are not aware that we are offending ourselves while blaming others for the cause. Repeated recital of the following meditation may release you from the pain of being offended and the charges of offending others. In other words, you relieve yourself from both the pain of yours and the charges of others. Try see practicing the following steps:

 

Step 1: Be kind to yourself Stage  

Let myself be always happy and kind  

Let myself be free from disease and mental  worries.  

Let myself be always successful in righteous and reasonable endeavors.  

Let the wisdom of light shine upon myself.  

Let myself be always happy and kind.  (3 times)  

 

Step 2: Be kind to your intimates  

Let my intimates be always happy and kind.

Let my intimates be free from disease and mental worries.

Let my intimates be always successful in righteous and reasonable endeavors.  

Let the wisdom of light shine upon my intimates.  

Let my intimates be always happy and kind. (3 times)

 

Step 3: Be kind to all living beings

Let all living beings be always happy and kind.

Let all living beings be free from disease and mental worries.  

Let all living beings be always successful in righteous and reasonable endeavors.

Let the wisdom of light shine upon all living beings.  

Let all living beings be always happy and kind. (3 times)  

 

Step 4: Be kind to people you are not happy with

Let all living beings irritable to me be always happy and kind.

Let all living beings irritable to me be free from disease and mental worries.  

Let all living beings irritable to me be always successful in righteous and reasonable endeavors.  

Let the wisdom of light shine upon all living beings irritable to me.

Let all living beings irritable to me be always happy and kind. (3times)

 

Step 5: Be kind to people who are not happy with me

Let all living beings not happy with me be always happy and kind.

Let all living beings not happy with me be free from disease and mental worries.

Let all living beings not happy with me be always successful in righteous and reasonable endeavors.

Let the wisdom of light shine upon all living beings not happy with me.  

Let all living beings not happy with me be always happy and kind. (3 times)

 

Step 6: Fathomless compassion  

Let all living beings be always happy and kind. (3 times)

 

Sabbe sattā Bhavantu sukhitattā (3 times)


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~生きとし生けるものが幸せでありますように~


※スマナサーラ長老による英語版の慈悲の冥想テキストとチラシ画像です。問い合わせが多かったので掲載しました。

新年祝福法話~理性で生きることこそが吉祥です~(42分26秒)をダウンロード

 

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新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。2010年最初のDhammacast(法話音声配信)は元旦に行われたゴータミー精舎新年祝福法要での、スマナサーラ長老のご法話を配信いたします。

以下はTwitterでの実況です。実際のご法話の内容のニュアンスを汲み取っていない箇所もありますが、参考までに御覧ください。

2011年1月1日 ゴータミー精舎新年祝福法話「理性で生きることこそが吉祥です」アルボムッレ・スマナサーラ長老

仏教は迷信は無意味だと言っていますが、お祭りが無意味だと言っていないのです。一年の節目節目で気持ちを切り替えて新たに頑張るぞというお祭りすることの意味は認めています。しかしそれに余計な信仰をくっつけるのは反対するのです。

門松を立てるのはカッコいいけど、歳神様が門松をつけていないとその家を素通りしてしまうという迷信はちょっとおかしい。門松はカッコいいんだから飾りましょう、というのは仏教で反対するところではありません。

でも正月だからと酒のんで酔っ払ってばかりじゃ、まずい、と思うんですね。世の中の不幸を避けたいということで祝福を受けたりもします。テーラワーダ仏教では新暦の元旦は何もしない。仏教の人々には他にも充分祭りがありますから。わざわざ借り物の祭りはやりたくないと。

ウェーサーカ祭りもど派手にやるが悪いことは一切しない。酒屋も営業停止。食べる為に動物を殺すこともしない。その代わりに動物たちに食べ物を配ってあげる。野良犬たちにもお布施する。

祭りは仏教の人々は、他人に害を与えない事が祭りだと思っている。365日は無理でも、祭りの日だけでも他の生命に害を与えないようにする。職業的な漁師さんもその日は控える。日本の皆さんも罪ばっかり増える祭りをやっていると、それは不幸になります。

祭りだから罪を犯しません、祭りだから酒を飲みません、という風にした方がいいのでは? 御柱祭りもだんじりも、楽しいでしょうね。楽しいのはいいけど、酒を飲んだり喧嘩したりして心を汚すと不幸になる。祭りの後で酷い目にあうという事もあり得るのです。

新年や誕生日などお祝いするべきなんでしょうか? 人生が一年終わってしまった、残りが短くなりました、ということも考えるべきなんですね。自分の人生の長さを考えるというのは、理性的に生きることなのですね。

理性的に生きることが最高の吉祥であると、(いま唱えた)吉祥経にもありますよ。第一の項目に、悪人と付き合わない、理性的な人と付き合う、目上の人を敬う。これに勝る吉祥はないのだと。

縁起担ぎのおせち料理を食べて幸福になるわけではない。(幸福になりたければ)悪い人と付き合うなよと。周りの環境によって自分の気持ちも変わるんです。人間の心はそういうもの。やはり誰の影響を受けるのかということを選ばないといけない。心は受信機になっている。

何を受信するか分からないのだから、よい人と付き合いさないと、釈尊がおっしゃっている。現代人に嫌われることも言っています。知識・技術を学びなさいと。それだけでもその人は幸せになります。何を技術を得ている人はそれだけでも一生生きて行ける。仕事を頼まれる。

様々な項目をまとめると、理性的に生きることは最高の吉祥である、ということになるのです。今日の機会に、理性に基づいて生きるということを考えてみてください。

経典から、思いつくままに言います。住む環境を選ぶということ。自分が何をして生計をたてて生きて行くのか、ということに適した場所を選んで生きる。一箇所にしがみついて生きる必要はないのです。それから、いつでも自己制御していること、両親や親族の面倒をみることも吉祥であると。

年をとってくると、世間のなかの名声というのはつねに変化して流れて行くんですね。毀誉褒貶の浮き沈みは避けられない。それに心が揺るがないこと。それからブッダの教えを学ぶこと。世の中の事柄というのは一つも当てにならないんです。

人間は歴史的に見ても、変なことばかりしている。そういう知識を学んでも理性が育たない。迷信が固まるだけ。だから迷信を片っ端から壊すブッダの教えを学んだ方が人間にとっては幸せだと思います。

国際関係でも領土問題などがありますね。人間というのは仲良くすべきなんですが、それを 措いて、岩一つのためにケンカばかり。国際紛争と言っても大騒ぎする様な問題はない。感情と無知とものすごい執着があるから、問題が起きる。人間は信じられないバカなんです。

人間はほんの数十年しか生きていないのに。みるみるうちに消えてしまうのに。家族も子供もどんどん変わっていく。決して逆戻りはしない。自分がもうすぐ消えなくてはいけないと分かるんです。自分がほんの一時期しかこの世界に居ないと分からないから争いが耐えない。

お釈迦様は慈しみで生きていた。つまらない事で足が引っかかって不幸になっている人々を見て、ああ可哀想だなと。純粋な哀れみ(大悲)のみで活動された。それはお釈迦様だけ。世の中に哲学者や宗教家がたくさんいますが、裏をみるとみんな怪しい。

架神恭介さんという方が『完全教祖マニュアル』(ちくま新書)という本を書いた。お笑い芸人みたいな感じの本ですが、中身はしっかり調べて書かれてる。教祖になりたければ、何か人の言葉をパクってテキトーなことを言ってしまえばいいんだと。それで誰かが信じてくれますよと。世の中にある宗教というのは、その通りにできています。

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

理屈なんか通っていなくてもいいんだと。ワケの分からない支離滅裂なことを喋っても、後から知識人ががんばって勝手に膨大な理論をつけて正当化してくれますよと。それを読んで、私は『聖書』を思い出したんです(笑)。

............

釈尊は仏弟子にも、完全な慈しみで生きることを説いた。神社の御守は何の役にも経ちませんが、御守にするというならば、『慈悲の瞑想』こそが最高の御守になるんです。糸を巻いたからといって守られるか分かりませんが、慈しみで生きるならば、断言的に守られます。たとえ自分を恨んで、カラクリして陥れようという人がいても、効き目がないんです。

慈しみは最高のガードになります。慈しみを強化すると自分の中から(業から)出てくる不幸も抑えられるのです。

............

一年のはじめには「今年の計画」を立てたりするものですが、一年一年という単位は人間にとって長すぎるのです。一年単位で計画を立ててもうまく行くか分からない。計画なんて、無いと言った方がいいんです。仏教的な勝負は一日計画です

一日単位だったらそう大胆に変わる事はない。一日一日で勝負する。一日の計画で生きることを理性的で、成功する生き方です。失敗しタッて対した事は無い。大雪で立ち往生した人々もそれに忍耐した事を自慢出来る。計画は果たせなくても、それがかえって面白くなる。

阿羅漢たちがよく唱えたBhaddekaratta-gatha(「日々是好日」偈)という詩がありました。きょう一日だけでも怒らないようにするぞ、と頑張れば、その人は成功します。いろんな事が起こっても、きょうは感情的にならないと決めたんだから、と抑えれば、一日で怒りの病気が治ります。

悩みと縁のない生き方―「日々是好日」経

神様の話とか、希望を叶える壺の話とかの方が面白いかもしれませんが(笑)。理性的に生きることが最高の吉祥である、というお釈迦様の言葉を「お年玉」として持ち帰って、どうぞ幸福な一年をお過ごしください。(メモ文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
ブッダに学ぶ人間関係論(1時間50分44秒)をダウンロード

 

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今回のDhammacastは、去る2010年11月14日に大分市アクロスホールで開催されたスマナサーラ長老の講演会『ブッダに学ぶ人間関係論~他人と上手に付き合うためのコミュニケーションの鍵~』(主催:明西寺)の模様を配信いたします。

この世の中で、犬のことなら難しくないのです。猫を飼ったって、楽々と仲良くすることができます。他の動物でもぜんぜん問題ありません。これが人間になってくると、たいへんです。ということは人間関係といっても、こんなものを上手にするのは無理だ、ということになります。

スムースで穏やかな人間関係ということはこれまでも無かったし、これからも無いし、諦めるしかないのです。人間関係というのは他の動物と比べてもとんでもなくややこしい。蚊と付き合うのもそんなに難しくない。蚊取り線香をたくか、蚊帳を吊るか。ウィルスはちょっとややこしいですが。

人間だけは、どう対応したらいいか、という答えが見えてこない。自分の飼っている犬は言葉が通じないが、人間には言葉が通じる。言うことも分かる。気持ちも理解できる。教育もある。便利なグッズがたくさん付いている。でも、うまくいかない。

いったいこれは何なんでしょうか?犬も喧嘩するが、犬戦争は起きたことがないのです。人間の喧嘩はお互いに殺しあって全滅にしてやるぞ、という処までエスカレートする。第二次世界大戦で9500万人殺されたといいます。宗教が原因で殺された人の数はもっと多いのです。

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宗教といってもやっているのは人間でしょう?そんな恐ろしい心を持っている人間と仲良くできるでしょうか?最近の日本で熊の害を騒いでいるが、凶暴な熊も大きな音がしただけで逃げてしまう。対応はそんなに難しくない。

人間が空き巣に入ったとしたら、騒いだら殺されます。それが史実であって現実です。それが人間の本性でもあります。これからも同じことです。人間がいるかぎり、ろくな事がないんです。しかし矛盾だらけですが、我々は人間だから、人間と付き合わないといけないんです。

もっと酷い事に、人間は単独で生活できないん動物です。自分が生きるためには他の人間との関係が必要なんです。人間はコロニー作って生活しています。 ミツバチの世界とそんなに変わりがない。単独になると生活できなくて死んでしまいます。

生きていくために、人間は必ず人間と仲良くしなくてはいけない。しかしそれが一番難しい。人間と仲良くできないのが人間です。これは酷いジレンマです。異様に聞こえるかもしれませんが、それがごまかしのない事実です。ウソやごまかしによって苦しむのは人間なのです。
(当日の講義メモより)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

2010年1月26日18:30からゴータミー精舎で行われたパーリ経典解説(講師:スマナサーラ長老)を実験的にUstreamのDhammacastチャンネルで中継しました。

今回取り上げた経典は増支部四集のUmmaggasuttaṃ(リンク先の6番目の経典)です。
USTREAMサイト上に講義の動画を残したので、以下リンクを貼っておきます。



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~生きとし生けるものが幸せでありますように~
真理と道徳は分けられない 増支部4集「婆羅門真諦経」講義より(120分)をダウンロード

DSC_0200.JPG......地球が丸いということは真理ですけど、そこから出てくる道徳はなんですか?ブッダの場合は、道徳と真理は不可分なんです。そこは、仏教を哲学として学ぶ場合には気を付けるべきポイントです。仏教では、真理と道徳は不可分なんです。......(スマナサーラ長老の講義メモより)
2009年10月27日、ゴータミー精舎で行われたスマナサーラ長老のパーリ経典解説の音声をpodcast配信いたします。

今回のテキストは、Aṅguttaranikāyo Catukkanipātapāḷi 5. Brāhmaṇasaccasuttaṃ 増支部4集「婆羅門真諦経」です。異教の遊行者との対話を通じて、ブッダの説かれた真理の偉大さが浮き彫りになるスリリングな経典j講義です。

 ......バラモン人がみな「殺生するなかれ」と言っているわけではないのです。しかし「殺生してはいけない」というバラモンもいた。それは本当のことを言っているんだよと、釈尊は超越した悟りの智慧で語るのです。
 一般人は「殺生してはならない」と(ただ)いう。釈尊は、それが真理であると発見する。
 ポイントは、生命に害を与えてはならないということは誰でも言っていることですが、ある修行者は瞑想して得た覚りの智慧で、「あ、この人たちは本当のことを言っているんだ」と発見することです。かといって、その人は自分がエライ宗教家だと思っていない。バラモンだと思っていない。優れた人間だとも思っていない。私の智慧は皆と同じになったとも思わない。他人よりレベルが低いとも思わない。しかし、発見した事実・真理があるから、その真理によって、生命には一切害意を持たずに憐みを持って生活する。
 それは、釈尊のことを言っているのです。すごいことを発見したからと言って、自分がエライ修行者だとは思わない。そんなような気持ちは一欠けらもない。ただ真理を発見した。その発見した真理によって生きている。生命に対する憐みをもって......。それが本物の生き方なんです。
 釈尊にはまったく自我が無い。「あなたは何者ですか?」と問われても、答えが無いんです。「われは神である」とか「我こそは仏陀である」とか、そういう人々は誇大妄想という病気なんです。ほんとは治療すべきなんですけど......その代わりに、皆で拝んでいるんですね。
 釈尊はこれほどの真理を発見しているのに、自分、という立場が消えている。自我が無い、実体がない境地に達しているんです。......(スマナサーラ長老の講義メモより 文責:佐藤哲朗)
パーリ語のテキストは、以下のリンク先からダウンロードしてください。

2009_1027gotami_sutta_AN_4-185.pdf

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

2009年10月16日、佐賀新精舎(佐賀県鹿島市音成)で初となるスマナサーラ長老指導の瞑想会が開催されました。静かな農村風景のなかにある精舎で行われたご法話のメモをご紹介します。困難な状況下で、農業に携わるすべての人々に、読んでいただければと思います。

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「......こういう場所では、お釈迦様の時代と同じ環境で説法できるんですね。おだやかで静かで、農業で生活している、こういうところでは仏陀の教えはものの見事に語られます。大都会ではちょっと難しいんです。

 みなさんの仕事は、人間がいる限り、欠かせない、絶対やらなくてはいけない仕事なんです。他の仕事、服のデザインとか、美容師になるとか、音楽家とか、そういう仕事が成り立つのは、人間が食べていけているからです。食べて幸せでいるから、もうちょっと遊びましょう、楽しみましょうというところでかっこいい服を探す。だから髪の毛も、というのはずっと後で出てくることです。まず、命をつなぐために栄養が必要なのです。それをつないでいるんだから、食べ物を作るということは、たいへん大事な仕事です。職業そのものも徳行になる。食べられる作物を植えて育てるだけで、善行為です。それで人が生きているんですから。

 農業はそれ自体が徳になる、「徳行」です。......この世界で、仕事イコール徳行になることはなかなかありません。ですから、そういう気持ちで仕事してほしいんです。たいへんなことだ、遊びじゃないんだ、人の命を預かっているんだと。

 皆さんには嫌われていますが、このへんのイノシシも、おかげで贅沢しているでしょう。皆様の畑にイノシシが入って食べて、皆様の努力で彼らも豊かに生きている。皆様が動物たちも幸福にしてあげているんです。イノシシは作物を盗んでいくけど、それでも、「しょうがないんだ、イノシシも元気でいてほしい」という気持ちでいると、被害は少なくなるんです。農業して残った作物は、動物たちの分なんです。慈しみを広げていくと、不可思議なことに、動物も残ったもの、役に立たないものを食べていくんですよ。

 農業をしていると、ものごとは毎日変化するというのが、よく見えます。さっきも藤井さんと話していたけど、オクラが育って育って、朝も昼も二回も収穫しないと追いつかない。で、明日収穫するぞ、と思ったら、もう売り物にならなくなってしまう。そのくらい早く変化するんです。みるみるうちに変化する。ものごとは絶えず変化している過程です。一瞬も休めない人生なんです。稲といっしょにわれわれも年をとっていく。麦をつくって、米を作って、また麦を作ってと、休めない。体感していますね、わがままいえないこと、流れの中で生きていかなければならないことを。

 自然の法則は摩訶不思議です。みんなが頑張ると、因果法則の中で、一時的な結果が出るだけ。おいしそうなオクラも、明日、収穫するのではダメです。今日、取らないといけない。結果も一時的です。そうやって生きていると、なんでも無常で流れているんだとわかるでしょう。でも、原因がぜんぶそろったら豊作になるかというと、それもわからない。台風が来たらどうなるか、日照になったり、雨が降りすぎたりしてもダメでしょう。そういう条件もそろわないといけない。

 無常といったら、なんでもかんでも無常です。しかしすべて因果法則の中なのです。ひとつもわがままは通じません。人間が貢献するところはほんのわずかで、無数の因果関係の流れの中で、条件がそろったら豊作になる。それさえも一時的で、それは誰か(絶対者)がやっているわけではないのです。「すべて因果法則である、縁起である」と、毎日、体感できる。(農業を仕事にする人々は)仏教を理解するために、心清らかにするために、すばらしい環境にいるんです。......」

(2009年10月16日 佐賀新精舎でのスマナサーラ長老ご法話より。メモ・文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

2008年12月20日は、ゴータミー精舎の大掃除の日。朝早くからたくさんの方がご参集してくださり、精舎の隅々まで掃除してくださいました。1500からは今年最後となるスマナサーラ長老のダンマパダ(法句経)講義がありました。以下、その場でとった講義メモを整理した文章を掲載いたします。語彙や言い回しなどかなり記者のものに変わっていますし、細部で間違いもあるかと存じます。参考程度にお読みください。


ダンマパダ(法句経)講義 賢者の章85,86偈
講師 アルボムッレ・スマナサーラ長老

85 appakaa te manussesu ye janaa paaragaamino,
人々のなかで彼岸へ到達する人々は少ない。
athaayaM itaraa pajaa tiiram evaanudhaavati.
また他の人々は(こちらの)岸を走り回っている。
86 ye ca kho sammadakkhaate dhamme dhammaanuvattino,
また実に正しく説かれた法において法に従順なる人々は(正しく説かれている真理に従って実践する人々ならば)、
te janaa paaram essanti, maccudheyyaM suduttaraM.
そのような人々は越え難き死王の領域(王国)を(越えて)彼岸に至るであろう。

■この偈のポイント

表面的には難しい意味ではありません。
お釈迦さまの目から見ても、解脱に成功する人々の方がすくない。この世界で仏教徒も少ない、仏教徒はいても、解脱する人は少ない。他の人は頑張っているけど、グルグル回っているだけ。
tiiram evaanudhaavati.(川を超えられずに)岸で走り回っている。
sammadakkhaate dhamme正しく説かれた法(真理)において ←ココポイント!

正しく説かれた、というのは、宣伝文句ではない。どの角度から見ても完全に説かれているということです。それは人間に不可能なこと。文学作家は言語の達人です。言語を見事に演奏します。それは皆にある能力でもないが、学べば身に付く可能性がある。それで例えば詩人が何かのテーマを歌うとします。しかし、「これ以上立派なもの誰にも作れない」ということはあり得ないのです。上手な作家でも、あるテーマを完璧に書くということはできません。人類のなかで、完璧に語られたのはお釈迦様だけだと思います。ブッダの言葉は、誰もケチが付けられないのです。しかし、釈尊は(文学者のように)言語についてそれほど真剣に考えていません。おおざっぱに言葉を使いつつ、見事に説くのです。

■「正しく説かれた」教えはそのまま実践

正しく説かれた、とは何なのでしょうか。釈尊は悟りに達する方法を説いています。それを完璧に説いているのです。その教えは誰にも訂正できない。ぴったりそのまま実践しないといけないのです。

釈尊の教えを、自分で「改良」して自分のシステムつくっても結果は出ない。
しかし、みんな、それをやってしまっているのです。

釈尊の説いた修行方法を自分で改良すること、いろんな方法を自分で導入して「あの方法とは違いますよ」と誇示するようなことは絶対やってはいけない。なぜ人々が悟れないのかというと、そこにポイントがあるのです。みな仏法僧に帰依しながら、釈尊が絶対やってはいけないと言ったことをしているのです。修行は、微妙にでも間違ったら、もう「さようなら」なのです。

■仏教はエサをまいて人集めをしない

修行は表面的には簡単ですが、表面的に簡単であることが、見事に説かれているという所以です。実践が不可能だとは誰にも思わせない。なのに修行をしている過程で、「他の方法はないのか?」などと探したりする。どこかでお釈迦様の方法を改良(といいながら改悪)しているところがあったなら、そっちに飛びつく。ブッダの教えを改悪する人は、俗人を引き付ける目的でやっているのです。俗人のためのエサだから、ロクなものではない。それでみんな、間違ってしまう。仏道ではエサをまきません。人気、人寄せのため、人へのアピールのためには、何もしません。

一般人にアピールするために何かすることは、やってはいけないのです。
仏道は「正しく説かれている(sammadakkhaata)」。これはとても大変な単語です。
仏法僧の「法」に帰依する時も、いつでも最初に来る言葉はsvaakkhaato(善説)なのです。
svaakkhaata、sammadakkhaata、という言葉が意味するのは、言語的な(文学)能力ではなく、正しい完璧な方法論を説いているということです。

悟るためのやり方というのは、どんなやり方でもいいわけではないのです。達すべき目的、答えがあるならば、何をやってもいい、ということは成り立ちません。正しいやり方があるのです。 俗世間でも、どんなものでも「やり方」が成り立っているのです。そのやり方でやれば決まった結果が出てきます。やり方を少々変えたら、当然、結果が違ってきます。

■何にでも正しい方法がある

例:お粥を作るにも正しいやり方がある。お米の量と水の量がある。水が減ると普通のご飯になる。先に米を空煎りしてから作ると別の食べ物になる。アーユルヴェーダではお粥も治療方法だから、調理の仕方によってそれぞれ効能が違うのです。だから、正しい結果を得たければ、言う通りにしないといけません。お粥であっても作り方があります。そこは変えてはいけない。悟りに達する方法について、釈尊は微妙にも変えることはできない方法を説いたのです。

このポイントがなぜ重大かと言うと、こころはすごく管理しがたい大変なものだからです。
瞑想したからといって、うまくいくとは......限りません。
こころは分かりにくい働きをします。それを仏教で説明していますが、つまり、こころは幻覚を作り出すのです。こころが自分で結果を考えて、その「考えた結果」を自分で作り出します。考えた結果は「幻覚」なのです。いつでも結果に達している「つもり」になってしまう。お化粧するのと同じです。こころが「美人でいたい」と決めてしまう。それでこころに何か塗って、美人になったつもりになる。我々はそういう「つもり」の世界にいるのです。服を着る時も、かっこよくなった気分でいる。こころはそれで満足しているのです。客観的な結果は気にしません。

■「つもり」の世界では満たされない

こころはそうやって、何か希望を作るのです。希望に達した気分になって、吾輩は良かったと満足する。でもそれは幻覚、「つもり」だから、エネルギーはない。次、また何かやらないといけなくなる。たとえば最高な御馳走を食べたつもりでお茶づけを食べる。ご馳走を食べた気分になっても、実際に御馳走を食べたわけではないのです。「食べた気分」が生まれただけ。実際に御馳走を食べて得られるエネルギーはそこにはない。だからすぐ次のことをしないといけないのです。でもまた「つもり」で喜んでしまう。我々はそうやって、「つもり」の世界で生きているのです。幸福になったつもり、成功したつもり、最終的には、「悟ったつもり」にもなります。

ですから、全智者であるブッダが、悟ったブッダが説かれる方法には微妙にでも触れてはならないのです。そのまま実践するしかないのです。仏道を微塵も変えるなよ、触るなよ、そのままの形でやりなさいと言うことなんです。sammadakkhaataというのは、大変な単語です。わずかな変化もダメなんです。線路で例えれば、軌道にミリ単位の微妙なずれがあっても、先に進めば進むほど方向は大きくずれてしまう。行きたかったところに到着できない。仏道を微妙に変えたら、自分のこころで、「つもり」のこころで変えたことなのだから。

つもりのこころで生きてきた人にとっては、つもりのこころで作ったものが分かりやすいんです。だから人気が出ます。日本で昔、浄土教がサーっと広まったのも、「つもり」のこころには分りやすかったからです。念仏を唱えれば、死後は極楽浄土に行けるという教えですから。神を信仰する宗教が人気出るのも当たり前。西洋の一神教は、「つもり」の世界の代表です。そういう智慧のない、論理性のない人々の考えを見るとよくわかります。一般の人はそれなら分かりやすい。論理的な正しい方法はやりたがらないのですが、「水をかぶれば罪が消える」と聞いたら、飛んでいってやりたがる。こころを持っている生命には、人間に限らずそういう問題があるのです。

自分で期待をして、自分で幻覚をつくって、なった「つもり」になる。でも何か困るのです。そこで新しい希望を作って、挑戦してなったつもりになって、またちょっとちがうから、次の希望をつくって......無限に続くんです。「つもり」の輪から、脱出できないのです。

■行ったことのない場所のガイドブックを書く


真理は、「花より団子」なんです。
花より団子を取る人こそが賢いのです。
こころは間違えて、花より団子は間違い、という生き方をしているのです。

そういう、ややかしいところがあるから、お釈迦様はsvaakkhaata、sammadakkhaataという言葉を使っています。人にそれを改良する資格はまったくない。悟りに達していないんだから。歩んだことのない世界のガイドブックを作るものじゃないのです。ガイドブックを作る資格があるのはそこを歩んだ人なのです。
しかし人々は、自分が歩んだことのない、経験したことのない世界について、自分でガイドブックを書いてしまう。書いて、それからやってみる。すると、「つもり」になるんです。子供はよく「つもり」遊びをやっています。フィギアを持ってきて、いろんな怪獣の話やら、いろんなキャラクターを持ち出して。あれは子供たちの「つもり」あそびです。つもり病は子供のこころを見るとちゃんと見えます。

人間にある、「つもり」病にかかると、悟れません。だから解脱に達する人は少ない。
「死は乗り越えがたい」のです。

■「自分の意見」で経典を解釈する危険

注釈書では、岸でうろうろする、という言葉を 「有身見のこと」だと説明しています。経典の注釈書でも、仏道はみじんも改良不可能なものである、ということは言っていない。そのポイントは見逃してしまうのです。
注釈書を書いた上座仏教の長老たちは、ブッダの言葉は金言で絶対的な言葉で変えることはできないと、基本的に決まっています。最終決断はブッダの言葉を調べて、何か言葉があったらそれで結論。しかしブッダの言葉を解説するために異論が成り立つとどうにもならなくなる。問題が起こるのはブッダの言葉を解説しようとするときです。それで、自分の意見で経典を解説することになる。やがては、自分の意見をブッダの意見にするんです。

■輪廻転生もわかった「つもり」

先日、あるイギリス人が、中国系のお坊さんが書いたテーラワーダ系の本を持ってきて、輪廻について質問してきました。私はまず、「『自分には理解できない、私には分かりません、だから真理ではありません』ということは成り立たない。それだけ覚えておきなさい。それはヨーロッパ人がよくやることです」と釘を刺しました。彼もそれを理解した。彼が持ってきた本を読むと、「輪廻は心理の変化のことだ。人はその都度、地獄に落ちたような苦しんだり、ほんの時々は天界にいるように落ち着いたりして、人格が変わるでしょう。それが輪廻のことですよ」と、みごとに輪廻転生の教えをカットしている。それで、その本を読んだ人は、「生命はこの命に限られる」という証拠も何もない結論に達してしまうのです。つまり、ブッダが超越的な智慧で発見した輪廻を、単に自分の知っている世界で説明しようとするのです。それで輪廻を、知っている「つもり」、わかった「つもり」になる。釈尊の説かれる輪廻は、過去生を目の前で経験するような能力ある人だけに実証される概念です。過去(過去生)を見る。過去を見て、過去があるなら将来があるのも当たり前だと推測するんです。仏教で問題にするのは、なぜそうなったのか?という原因です。その原因を取り除いたのかと。取り除かないで、ただ生きてきただけだから、それで、また生まれてしまった。仏教の修行というのは、また生まれる原因を取り除くことです。それを自分の理屈で理解しようとすると、「つもり」の世界になる。なるほど、よく理解できたと、わかった「つもり」になるのです。

■真理を語る人、真理を守る人

本を書く人の間違いは、「輪廻とはそのようなものである」と書いてしまうことです。「私は自分のわがままでこのように解説するのです」ということならば、結論が間違っていても問題は少ない。釈尊は「真理を語る」「真理を守る」という二つのことを言っています。「私はこう解説する」というならば、真理を守っています。私が文章を書く場合、「○○です」と「○○と思います」は微妙に区別します。「○○でしょう」と使う場合もあります。いくらす早く読み合わせをしても、動詞には気をつけるんです。
この偈ふたつのポイントはsammadakkhaata、「つもり」世界へのブッダの注意です。仏教以外何も知らないような人であっても、気をつけないといけない。訂正する「つもり」になるのです、道を。

■仏道はただひとつの道

(質疑応答から補足:経典はたくさんあっても、仏道はひとつしかないのです。マニュアルだから、ひとつしかない。 機械のユーザーマニュアルがたくさんあるわけではない。たとえば、Windows Vista の使い方を解説した本はたくさんあります。しかし、『90分で分かるVista』であっても、分厚い『Vistaバイブル』であっても、結局同じことで す。きめ細かく専門的ないらないところまで書いているか、いつも使うところに絞った説明かというだけのこと。結局、Windows Vistaの使い方は決まっているのです。電子レンジのマニュアルが、マンガで書いてあっても、文章でも、英語で書いてあっても、結局使い方は同じです。 お釈迦様の説かれた経典(パーリ経典)も当然たくさんあります。経典ではいろんな論点を分析して説明しますが、仏道(修行)についてはワンパターンで終わ り。決まった同じパターンがあります。微妙にも言葉も変えません。
......
たくさんの経典から好みの経典を選ぶのは構いませんが、「仏道がた くさんある」ということは成り立たないのです。解脱・悟りというこころの転換を起こす方法は、たくさんありえるはずがない。「つもり」世界だったら、それ はいくらでもあり得ます。お釈迦さまは、医者に例えて説明するのです。「病気なら病気になった原因があります。それを無くす方法はひとつしかない。薬なら 何でもいいわけではないのだ」と。テーラワーダ世界でたくさん瞑想法がありますが、それは入り口の、アクセスの差だけです。初心者に瞑想を教えようとする 場合は、不浄瞑想でも、呼吸瞑想でも、入門編として、知られている方法を取り上げるだけ。ヴィパッサナーに入ったら、道は一つです。東京で新幹線に乗ろう としたら、品川か東京まで行かないといけない。そこまでは近道であろうが、遠回りであろうが、どのルートを使ってもいい。勝手にしろよと。しかし、東京駅 からは新幹線一本になります。)

■解脱にいたる「善のストレス」

輪廻を脱出するというのは大変なことです。
木曜日の朝日カルチャー教室で、悟りに達するために必要なエネルギーについて、初めて紹介しました。輪廻を脱出するためには、かなりエネルギーが必要なのです。いろいろ工夫して悟りに達するエネルギーを貯めないといけないのです。生きているとどうしてもストレスはたまります。悪ストレスをやめても、善ストレスもありますよ。どうしても、エネルギーは必要なのです。悪ストレスはあまり貯まらずにすぐ自己破壊します。でも善のストレスを貯めるのはたいへんです。貯めて貯めて、善のストレスを爆発して悟るのです。高跳びと同じで、みじんにでも思考が入ると飛べない。一点にすべてを集中するのです。飛ぶ瞬間、人には記憶がありません。何が起きたか分からないのです。

maccudheyyaM suduttaraM 死王の領域はそう簡単に飛べない。エネルギーが必要だということになるのです。

DSC_5627.JPG(質 疑応答から補足:善のストレスを貯めるためには覚悟しないといけない、たいへんだと。でもやるんだよと。それも法則で、嫌なものだからやるのは嫌、という のはとんでもないことです。何かやり遂げたければ乗り越えなくては。道は険しいということを覚悟しないと。その覚悟もなしに、登山してみようとしたって、 何にもならないのです。つかれた、寒い、やめたーっ、もどりましょうと。それって人生でしょうか? 寒いこと、雪が降っていること、うっかり滑落したら死 ぬことも覚悟のうえで、登山家は頂上を目指すのです。頂上まで行ったら、ストレスが解消されてすごくリラックスできる。そこまではストレスです。善のスト レス、つまり悪を止めて善に生きることも、頑張らないと淡々とは進まないのです。悪いことだけにストレスというのは現代語の間違い。ストレスの原意はエネ ルギーが溜まるということです。生きている限りストレスは貯まります。しかし、悪(貪瞋痴)のストレスではゴミが貯まるだけ。善(不貪不瞋不痴)のストレ スでは宝物が貯まるのです。それでも重いことは重い。悪を歩むと臭いゴミが溜まります。それで捨てたくなる。目的地に着いて袋を開けてもゴミばかり。善の 道を歩んでも重いものが溜まる。でも捨ててはいけない。重い、苦しい、と思っても、最終目的について袋を開けたら宝物なのです。善のストレスは自己破壊に はならない。しかし、あーつかれた、止めたくなったという気持ちは当然出てくるんです。善い道は目的に達するまで、ストレス覚悟でやらないといけない。善 のストレスと悪のストレスの違うところは、善のストレスは、身体にも、こころにも悪影響まったくないことです。善のストレスとは、こころが成長したいスト レスなんです。物を破壊する時も疲れるし、作る時も疲れます。でも、(貪瞋痴で)ものを壊して疲れても意味がないのです。何か素晴らしいものを作るために (不貪不瞋不痴で)頑張って、それで疲れたとしても、立派な作品が完成しているのです。云々。)

メモと文責:佐藤哲朗

2008年10月25日ゴータミー精舎で開催されたスマナサーラ長老「ヴィパッサナー瞑想と法話の会」初心者の方との質疑応答より。

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幸福も不幸も自分が決める

Q 仕事をしていて過去のことを思い出したり、嫌なこと、失敗を思い出したり、将来を心配してしまったりして、目の前の仕事に集中できないことがあります。どうすれば、いまに集中できるでしょうか?

A 瞑想で最初に解決するのはそういう問題です。瞑想実践で悪い癖を直せば、ほとんど、人間にとっての問題は解決すると思います。私たちは自分の運命のことを、自分で考えているのです。別にどこかの誰も自分の運命、幸福、将来性、誰も管理しているわけではない。自分でやっているのです。不幸になる人は自分で意図的に不幸に、失敗する人も自分の計らいで、意図的に自分で失敗する。何でも自分で計画立ててやっていることです。そう理解して下さい。大失敗して仕事失敗して大変な人も、そういう計画なんです。それをまず理解してほしい。人に何も言うことは出来ないんです。自分の運命というものは全部自分がしっかりと計画立ててやっているんです。その結果として見事に、不幸になる計画の人は不幸に、幸福になる計画の人は幸福になる。だから、計画通りうまくいくんです。

 そうなると疑問が起こる。誰でも不幸になりたいなど思っていない、幸福になりたいと計画立てるのが普通でしょう、と。そういう疑問が成り立ちますね。成功したいと思ってもなぜ成功しないのか。幸福になりたくてもなぜ幸福になれないのかと。

 事実は、自分が失敗を成功だと思っている、不幸を幸福だと思っているということなんです。それで計画を立てて実行しますから、結果が出たところで、「なんだこれ?失敗じゃないか」と思ったりする。嫌なことを思い出して、将来に不安を抱いて仕事に身が入らない。それで結果は不幸になる。でもやってしまうんです、目の前のことより、こちらの方が面白いと。好きでやっているんです。好きでやっているから、なかなか治らない。嫌でやっていることは、やめろといわれるのを待っていて、止めていいなら喜んで止める。好きなことはやめろと言われても、隠れてやってしまう。子供は、ゲームをやると頭が悪くなると知っています。でも勉強しないでゲームをやるでしょう。いくら頭悪くなっても、バカになってもゲームの方が面白いんです。やりたいんです。人間を観察すると、小さい頃から、その人ごとの計画で生きているんです。観察すると、それが見えます。この人はこういう計画で生きている。その計画変えないならば、将来はこういう結果になると、計画変えないならば、という条件付きで予想して言うこともできます。

 では、どうすればいいんでしょうか。
 好きでやっているんだから、他人には管理できないでしょう。

 せっかくですから、単純に方法というより、人生について勉強しておきましょう。
 私たちは一人ひとり自分で作った計画があって、好んでやっている。自分にさえ変えられないんです。だから客観的に人生を見て、どういう生き方で幸福になるのかと、客観的に勉強してその上で計画を立ててやらないといけない。その場合は好んでやるということはなかなか出てこないから、がんばって精進して行うということにしないといけないんです。

 幸福になることは嫌いで、不幸になることは大好きでやめろと言われてもやる、という考え方は私の知ったことではないんです。他人がそうしたわけでもないし、自分自身がやっているんです。

 最初は好きでやっている悪い事を止めるためには、踏ん張った方がいいんです、最初の一歩は。勇気を出さない人は、新しくものごとを考える勇気、ものごと・人生を変えることの勇気というのも、人生の計画の一部なんです。でも、「腰を上げたくない」人は、そのために計画を立てるんです。そういう人の場合、見込みはほとんどない。まず勇気を出して立ちあがるということが必要です。判断力と実行力、まとめて仏教では「精進」というんです。過去を思い出すことも、将来を思い出すことも、自分が不幸になるために好きでやっていることだと理解してみれば、「こんなことでいいのか。成功して幸福になって何がわるいのか」と自分の頭が判断するでしょう。それが一つ、怠けもののやり方で、勇気のある人なら、「これっきりやらないぞ。幸福になってやるぞ」と、いきなり決めるんです。何か方法がないのか、という場合は、だいたい「やる気」がないんです。このままでいいや、ということなんです。それは本音を建て前でごまかそうとしているんです。建て前でいいことばかりいうと、本音がとんでもないんです。

 方法なんてないんです。ただ止めるだけ。やめる方法を聞く?自分でやっていることを止める方法ありますかと。自分で水を飲みながら、「あのぅ、水を飲むことを止める方法ありますかね?」と。自分が止めればいいでしょう。ゲームをやりすぎるから止めたいんだと、ゲームを隠したり、鍵をかけてしまったり、そうやって何か止める方法はないかと。そんなのは、バカな方法です。必要ない、自分が止めればいいんです。

 こういう質問はよく聞かれます、何か方法ないかと。でも、自分でやっていることに「方法」はないんです。誰か他人が来て邪魔をするのであれば、方法があります。でも、自分でやっているんだから。そういう心のポイントを覚えておいてください。

ありのままの自分―アイデンティティの常識を超える (お釈迦さまが教えたこと 4) 心を清らかにする気づきの瞑想法 ライバルのいない世界―ブッダの実践方法 (スマナサーラ長老の悩みをなくす7つの玉手箱 1) 悩まない力―あなたの心に秘められている (プラチナBOOKS)

 他に質問ないですか。ないでしょうね。聞きたいことは同じでしょうから......。

戦争と仏教

Q 有名な禅宗のS老師が、日露戦争で従軍して、優秀なので活躍してたくさんロシア人をやっつけた(殺した)という話があります。日本は大乗仏教ですが......お坊さんが召集された時は拒否しないといけないものでしょうか。

A 過去の出来事については私には何とも言えませんが。戦争しよう、人殺せというのはイスラム教やカトリック教の伝統でしょう。でもカトリック教の神父さんを召集しませんね、日本であっても。だらしない大乗仏教でも、「殺生しなさい」とは言わないんです。個人で悪いことしても、反省して謝って自分ががんばる。それは人間の普通の現象です。日本では昔は肉魚も食べなかった。そういう教えがありながら、戦争に召集されると、ノコノコ出て行く。でもカトリック教の神父さんを召集する勇気は、日本人にもなかったのに。

 そういう、人間らしからぬ恥ずかしいことについては、私の意見を聞かない方がいいんです。世の中というのは屁理屈、矛盾だらけです。Sさんにしても、人格的に矛盾じゃないですかね? 一般人が戦争に召集されて、いろんなことやって、けしからんことだったと、終わってから反省して坊主になったという人たちは、人格的には立派になります。自分がそういう悪いことをやって、この道に入った。悪いことは悪いんだよと知っているんだから。最初から、殺すなかれと教えている組織で出家しておいて、召集されたら兵隊に行って人殺しをして、あとでノコノコと戻ってきて、また説教するというのはどういうことでしょうか。やっぱり、人間が情けないということなんです。一般的に、誰でも善いことにはいつでも気が弱い。悪いことなら勇気を出して頑張ってしまうという。悪いことならみな一致団結して勇気出してがんばる。善いことになると言いわけばっかりする。殺すことは決していいことではないんです。殺す気持ちがあるから殺されるんです。殺されかけて、あいつが悪いんだから殺すんだぞと言ってもね。「殺すことは悪い」という文化が世界にないでしょう。

 アジアの国でも、キリスト教の基準で構成されて、殺さないことは野蛮人だ、鉄砲を持たないことは悪いとさんざん言われましたからね。スリランカでは、いまもくたくた言われます。でも仏教のお坊さんは、冗談にでも鉄砲には触りませんよ。見ることもしないんです。でも、(キリスト教資本が支配する)新聞マスコミでは、「仏教の僧侶は血に飢えているんだ」と攻撃する。実際に人殺しをするテロリストならば、一生懸命応援している。鉄砲に触れることもない僧侶をつかまえて、「血に飢えた坊主どもの責任である」と。だから、一回でもお坊さんがテロリストと戦ったことあるのかと。タミル人を攻撃したことがあるのかと。キャンディの本山にもよく脅迫状が来ますよ。お前ら全員、爆弾で吹っ飛ばしてやるぞとか、とても気持ち悪い汚い言葉を使ったりとか。でも本山の貫主さまは、みな仲良くしなけれといけないんだと、誰のことも攻撃しないように話している。でもそういう話はマスコミに載らないんです。たとえ載ってもシンハラ語新聞だけ。英語では僧侶は「血に飢えている」という話です。

 世の中では、人の物を奪うことしか教わってないでしょう。資本主義とか言っても、要するに「泥棒のススメ」でしょう。どんな事をしてでも、とことん儲けろ、金があることが正しい、金がなければ犯人で悪いと。そういうことで、人々が生きることは二の次、自分だけ生きていればいい、という態度なんです。一人に必要なものをはるかに超えて、100万人分の資源を一人で集めて、使うこともできないでいる。

 (白人の識者たちは)二酸化炭素減らそうと言いながら、個人でジェット機に乗って行きたいところに行くんです。それでわれわれに説教するんです、「二酸化炭素減らしなさいよ」とね。そういうアベコベの文化に攻撃されても、私たちスリランカ人は彼らを逆に野蛮人あつかいしましたからね。「白人には文化も、道徳のかけらもないんだ、気をつけろよ、付き合うと自分たちも野蛮人になるんだよ」と。
 いまの流行りは、キリスト教から、イスラム文化になりかわってますから。どちらも「殺せ、殺せ」という、「殺しなさい、奪いなさい」という文化なんです。精神的に弱い人に負けるのは情けないことです。鉄砲よりは精神の方が強いんですけど。

 だから、答えがないんです。そういう狂った価値観から出てくる疑問には。戦争に行くべきか否かとか、国が決めたんだけどどうしようとか。元から間違いですからね。なぜ最初から、キリスト教文化にあわせて生きようとするのか。だから混乱するんです。日本にしても、昔は「西洋に対抗しているんだ」とか、「天皇陛下が神だ」とか。結局、キリスト教文化と同じことでしょう。向こうのかわりに、対抗してこっちも新しい神を作りますよと。

 日本の新興宗教見てみてください。みんな同じパターンなんです。開祖様が神様で、その人が死んだら息子や娘が神様になるという。宗教というのは個人の精神状態でしょう? それを自分が死んだら次は息子、というのはどういうことでしょうか。もしかしたら、その息子は一回もその宗教の教会に行ったことないかもしれません。ある新興宗教団体の開祖の息子は、小さい頃からヨーロッパに留学して、むこうで贅沢したい放題贅沢して、むこうで教育も受けて、もう中身はヨーロッパ人なんです。それで開祖様が死んだら戻ってきて、息子に跡を継がせると。信者さんもありがたがって喜んじゃって。どれほどバカかと。

 小さい会社では世襲もあるけど、基本は能力次第でしょう?お父さんがパイロットだから、息子も自動的にパイロットになってもらいますとか、そんなことはあり得ないでしょう。本人が努力していかないといけない。父がパイロットであることは何の影響もないんです。家に参考文献があって、宿題を手伝ってくれるくらいです。何考えているのか、自分でわからないのに考えているんだから。日本はなぜ戦争したのかと尋ねると、いろんな人がダラダラ話してくれますけど、バカバカしくて聞いてられない。私からすれば、一つも理由にならないんです。

 スリランカの田舎の人は、植民地時代にイギリスから召集されても、兵隊に行かなかったんです。英語もできない人々でしたが。「いえ、私たちの宗教では殺してはならないですから、行きません」と。彼らをひったてて軍事法廷にかけて皆殺しには......できなかったんです。しょうがないから兵営には入れて、戦闘に関係ない仕事をさせることになった。だから、昔はスリランカには、鉄砲に触ったことがない兵隊がいたんだから。大英帝国が相手でも、相手が折れて負けちゃったんです。仏教徒の精神の強さは並のものではないんです。キリスト教文化は、いちども仏教文化を屈服させることができなかった。その恨みがあって、いまだにいろんなカラクリをして仏教を攻撃するんですね。でも、いまのお坊さんはぜんぜん気にしないという態度です。私みたいに厳しく言いません。かえって相手を乗せてしまって、懐に飛び込んで、協力して仲間にしてしまう。それが出来るのも仏教だから。しっかりした文化があれば、何も問題ないんです。

 そういう自分たちの文化がありながら、かっこつけて他の文化をかぶってしまうと混乱するんです。権力者たちは、特にかぶり文化を受けてしまう。権力者は他の人々に差をつけたいから、他の文化をかぶるんです。それからは大変ですよ。教育システムも、働き方も、生き方も変わってしまって。でも一般人にはそれまでの生き方もあったりして。グチャグチャ混ざってまずい料理になりますよ。刺身にマヨネーズかけるような感じで、食えるんだけどなにか問題があることになるんです。

 はい、時間になりましたから、これで終わります。
(メモと文責:佐藤哲朗)

禅と戦争―禅仏教は戦争に協力したか 戦争は罪悪である―反戦僧侶・竹中彰元の叛骨 もうひとつの島国・スリランカ―内戦に隠れた文化と暮らし スリランカ―人びとの暮らしを訪ねて

 
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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