法話の記録の最近のブログ記事

2010年1月26日18:30からゴータミー精舎で行われたパーリ経典解説(講師:スマナサーラ長老)を実験的にUstreamのDhammacastチャンネルで中継しました。

今回取り上げた経典は増支部四集のUmmaggasuttaṃ(リンク先の6番目の経典)です。
USTREAMサイト上に講義の動画を残したので、以下リンクを貼っておきます。



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以下の外部マイクをつけて録音しました。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
真理と道徳は分けられない 増支部4集「婆羅門真諦経」講義より(120分)をダウンロード

DSC_0200.JPG......地球が丸いということは真理ですけど、そこから出てくる道徳はなんですか?ブッダの場合は、道徳と真理は不可分なんです。そこは、仏教を哲学として学ぶ場合には気を付けるべきポイントです。仏教では、真理と道徳は不可分なんです。......(スマナサーラ長老の講義メモより)
2009年10月27日、ゴータミー精舎で行われたスマナサーラ長老のパーリ経典解説の音声をpodcast配信いたします。

今回のテキストは、Aṅguttaranikāyo Catukkanipātapāḷi 5. Brāhmaṇasaccasuttaṃ 増支部4集「婆羅門真諦経」です。異教の遊行者との対話を通じて、ブッダの説かれた真理の偉大さが浮き彫りになるスリリングな経典j講義です。

 ......バラモン人がみな「殺生するなかれ」と言っているわけではないのです。しかし「殺生してはいけない」というバラモンもいた。それは本当のことを言っているんだよと、釈尊は超越した悟りの智慧で語るのです。
 一般人は「殺生してはならない」と(ただ)いう。釈尊は、それが真理であると発見する。
 ポイントは、生命に害を与えてはならないということは誰でも言っていることですが、ある修行者は瞑想して得た覚りの智慧で、「あ、この人たちは本当のことを言っているんだ」と発見することです。かといって、その人は自分がエライ宗教家だと思っていない。バラモンだと思っていない。優れた人間だとも思っていない。私の智慧は皆と同じになったとも思わない。他人よりレベルが低いとも思わない。しかし、発見した事実・真理があるから、その真理によって、生命には一切害意を持たずに憐みを持って生活する。
 それは、釈尊のことを言っているのです。すごいことを発見したからと言って、自分がエライ修行者だとは思わない。そんなような気持ちは一欠けらもない。ただ真理を発見した。その発見した真理によって生きている。生命に対する憐みをもって......。それが本物の生き方なんです。
 釈尊にはまったく自我が無い。「あなたは何者ですか?」と問われても、答えが無いんです。「われは神である」とか「我こそは仏陀である」とか、そういう人々は誇大妄想という病気なんです。ほんとは治療すべきなんですけど......その代わりに、皆で拝んでいるんですね。
 釈尊はこれほどの真理を発見しているのに、自分、という立場が消えている。自我が無い、実体がない境地に達しているんです。......(スマナサーラ長老の講義メモより 文責:佐藤哲朗)
パーリ語のテキストは、以下のリンク先からダウンロードしてください。

2009_1027gotami_sutta_AN_4-185.pdf

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

2009年10月16日、佐賀新精舎(佐賀県鹿島市音成)で初となるスマナサーラ長老指導の瞑想会が開催されました。静かな農村風景のなかにある精舎で行われたご法話のメモをご紹介します。困難な状況下で、農業に携わるすべての人々に、読んでいただければと思います。

CIMG2162.JPG
「......こういう場所では、お釈迦様の時代と同じ環境で説法できるんですね。おだやかで静かで、農業で生活している、こういうところでは仏陀の教えはものの見事に語られます。大都会ではちょっと難しいんです。

 みなさんの仕事は、人間がいる限り、欠かせない、絶対やらなくてはいけない仕事なんです。他の仕事、服のデザインとか、美容師になるとか、音楽家とか、そういう仕事が成り立つのは、人間が食べていけているからです。食べて幸せでいるから、もうちょっと遊びましょう、楽しみましょうというところでかっこいい服を探す。だから髪の毛も、というのはずっと後で出てくることです。まず、命をつなぐために栄養が必要なのです。それをつないでいるんだから、食べ物を作るということは、たいへん大事な仕事です。職業そのものも徳行になる。食べられる作物を植えて育てるだけで、善行為です。それで人が生きているんですから。

 農業はそれ自体が徳になる、「徳行」です。......この世界で、仕事イコール徳行になることはなかなかありません。ですから、そういう気持ちで仕事してほしいんです。たいへんなことだ、遊びじゃないんだ、人の命を預かっているんだと。

 皆さんには嫌われていますが、このへんのイノシシも、おかげで贅沢しているでしょう。皆様の畑にイノシシが入って食べて、皆様の努力で彼らも豊かに生きている。皆様が動物たちも幸福にしてあげているんです。イノシシは作物を盗んでいくけど、それでも、「しょうがないんだ、イノシシも元気でいてほしい」という気持ちでいると、被害は少なくなるんです。農業して残った作物は、動物たちの分なんです。慈しみを広げていくと、不可思議なことに、動物も残ったもの、役に立たないものを食べていくんですよ。

 農業をしていると、ものごとは毎日変化するというのが、よく見えます。さっきも藤井さんと話していたけど、オクラが育って育って、朝も昼も二回も収穫しないと追いつかない。で、明日収穫するぞ、と思ったら、もう売り物にならなくなってしまう。そのくらい早く変化するんです。みるみるうちに変化する。ものごとは絶えず変化している過程です。一瞬も休めない人生なんです。稲といっしょにわれわれも年をとっていく。麦をつくって、米を作って、また麦を作ってと、休めない。体感していますね、わがままいえないこと、流れの中で生きていかなければならないことを。

 自然の法則は摩訶不思議です。みんなが頑張ると、因果法則の中で、一時的な結果が出るだけ。おいしそうなオクラも、明日、収穫するのではダメです。今日、取らないといけない。結果も一時的です。そうやって生きていると、なんでも無常で流れているんだとわかるでしょう。でも、原因がぜんぶそろったら豊作になるかというと、それもわからない。台風が来たらどうなるか、日照になったり、雨が降りすぎたりしてもダメでしょう。そういう条件もそろわないといけない。

 無常といったら、なんでもかんでも無常です。しかしすべて因果法則の中なのです。ひとつもわがままは通じません。人間が貢献するところはほんのわずかで、無数の因果関係の流れの中で、条件がそろったら豊作になる。それさえも一時的で、それは誰か(絶対者)がやっているわけではないのです。「すべて因果法則である、縁起である」と、毎日、体感できる。(農業を仕事にする人々は)仏教を理解するために、心清らかにするために、すばらしい環境にいるんです。......」

(2009年10月16日 佐賀新精舎でのスマナサーラ長老ご法話より。メモ・文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

2008年12月20日は、ゴータミー精舎の大掃除の日。朝早くからたくさんの方がご参集してくださり、精舎の隅々まで掃除してくださいました。1500からは今年最後となるスマナサーラ長老のダンマパダ(法句経)講義がありました。以下、その場でとった講義メモを整理した文章を掲載いたします。語彙や言い回しなどかなり記者のものに変わっていますし、細部で間違いもあるかと存じます。参考程度にお読みください。


ダンマパダ(法句経)講義 賢者の章85,86偈
講師 アルボムッレ・スマナサーラ長老

85 appakaa te manussesu ye janaa paaragaamino,
人々のなかで彼岸へ到達する人々は少ない。
athaayaM itaraa pajaa tiiram evaanudhaavati.
また他の人々は(こちらの)岸を走り回っている。
86 ye ca kho sammadakkhaate dhamme dhammaanuvattino,
また実に正しく説かれた法において法に従順なる人々は(正しく説かれている真理に従って実践する人々ならば)、
te janaa paaram essanti, maccudheyyaM suduttaraM.
そのような人々は越え難き死王の領域(王国)を(越えて)彼岸に至るであろう。

■この偈のポイント

表面的には難しい意味ではありません。
お釈迦さまの目から見ても、解脱に成功する人々の方がすくない。この世界で仏教徒も少ない、仏教徒はいても、解脱する人は少ない。他の人は頑張っているけど、グルグル回っているだけ。
tiiram evaanudhaavati.(川を超えられずに)岸で走り回っている。
sammadakkhaate dhamme正しく説かれた法(真理)において ←ココポイント!

正しく説かれた、というのは、宣伝文句ではない。どの角度から見ても完全に説かれているということです。それは人間に不可能なこと。文学作家は言語の達人です。言語を見事に演奏します。それは皆にある能力でもないが、学べば身に付く可能性がある。それで例えば詩人が何かのテーマを歌うとします。しかし、「これ以上立派なもの誰にも作れない」ということはあり得ないのです。上手な作家でも、あるテーマを完璧に書くということはできません。人類のなかで、完璧に語られたのはお釈迦様だけだと思います。ブッダの言葉は、誰もケチが付けられないのです。しかし、釈尊は(文学者のように)言語についてそれほど真剣に考えていません。おおざっぱに言葉を使いつつ、見事に説くのです。

■「正しく説かれた」教えはそのまま実践

正しく説かれた、とは何なのでしょうか。釈尊は悟りに達する方法を説いています。それを完璧に説いているのです。その教えは誰にも訂正できない。ぴったりそのまま実践しないといけないのです。

釈尊の教えを、自分で「改良」して自分のシステムつくっても結果は出ない。
しかし、みんな、それをやってしまっているのです。

釈尊の説いた修行方法を自分で改良すること、いろんな方法を自分で導入して「あの方法とは違いますよ」と誇示するようなことは絶対やってはいけない。なぜ人々が悟れないのかというと、そこにポイントがあるのです。みな仏法僧に帰依しながら、釈尊が絶対やってはいけないと言ったことをしているのです。修行は、微妙にでも間違ったら、もう「さようなら」なのです。

■仏教はエサをまいて人集めをしない

修行は表面的には簡単ですが、表面的に簡単であることが、見事に説かれているという所以です。実践が不可能だとは誰にも思わせない。なのに修行をしている過程で、「他の方法はないのか?」などと探したりする。どこかでお釈迦様の方法を改良(といいながら改悪)しているところがあったなら、そっちに飛びつく。ブッダの教えを改悪する人は、俗人を引き付ける目的でやっているのです。俗人のためのエサだから、ロクなものではない。それでみんな、間違ってしまう。仏道ではエサをまきません。人気、人寄せのため、人へのアピールのためには、何もしません。

一般人にアピールするために何かすることは、やってはいけないのです。
仏道は「正しく説かれている(sammadakkhaata)」。これはとても大変な単語です。
仏法僧の「法」に帰依する時も、いつでも最初に来る言葉はsvaakkhaato(善説)なのです。
svaakkhaata、sammadakkhaata、という言葉が意味するのは、言語的な(文学)能力ではなく、正しい完璧な方法論を説いているということです。

悟るためのやり方というのは、どんなやり方でもいいわけではないのです。達すべき目的、答えがあるならば、何をやってもいい、ということは成り立ちません。正しいやり方があるのです。 俗世間でも、どんなものでも「やり方」が成り立っているのです。そのやり方でやれば決まった結果が出てきます。やり方を少々変えたら、当然、結果が違ってきます。

■何にでも正しい方法がある

例:お粥を作るにも正しいやり方がある。お米の量と水の量がある。水が減ると普通のご飯になる。先に米を空煎りしてから作ると別の食べ物になる。アーユルヴェーダではお粥も治療方法だから、調理の仕方によってそれぞれ効能が違うのです。だから、正しい結果を得たければ、言う通りにしないといけません。お粥であっても作り方があります。そこは変えてはいけない。悟りに達する方法について、釈尊は微妙にも変えることはできない方法を説いたのです。

このポイントがなぜ重大かと言うと、こころはすごく管理しがたい大変なものだからです。
瞑想したからといって、うまくいくとは......限りません。
こころは分かりにくい働きをします。それを仏教で説明していますが、つまり、こころは幻覚を作り出すのです。こころが自分で結果を考えて、その「考えた結果」を自分で作り出します。考えた結果は「幻覚」なのです。いつでも結果に達している「つもり」になってしまう。お化粧するのと同じです。こころが「美人でいたい」と決めてしまう。それでこころに何か塗って、美人になったつもりになる。我々はそういう「つもり」の世界にいるのです。服を着る時も、かっこよくなった気分でいる。こころはそれで満足しているのです。客観的な結果は気にしません。

■「つもり」の世界では満たされない

こころはそうやって、何か希望を作るのです。希望に達した気分になって、吾輩は良かったと満足する。でもそれは幻覚、「つもり」だから、エネルギーはない。次、また何かやらないといけなくなる。たとえば最高な御馳走を食べたつもりでお茶づけを食べる。ご馳走を食べた気分になっても、実際に御馳走を食べたわけではないのです。「食べた気分」が生まれただけ。実際に御馳走を食べて得られるエネルギーはそこにはない。だからすぐ次のことをしないといけないのです。でもまた「つもり」で喜んでしまう。我々はそうやって、「つもり」の世界で生きているのです。幸福になったつもり、成功したつもり、最終的には、「悟ったつもり」にもなります。

ですから、全智者であるブッダが、悟ったブッダが説かれる方法には微妙にでも触れてはならないのです。そのまま実践するしかないのです。仏道を微塵も変えるなよ、触るなよ、そのままの形でやりなさいと言うことなんです。sammadakkhaataというのは、大変な単語です。わずかな変化もダメなんです。線路で例えれば、軌道にミリ単位の微妙なずれがあっても、先に進めば進むほど方向は大きくずれてしまう。行きたかったところに到着できない。仏道を微妙に変えたら、自分のこころで、「つもり」のこころで変えたことなのだから。

つもりのこころで生きてきた人にとっては、つもりのこころで作ったものが分かりやすいんです。だから人気が出ます。日本で昔、浄土教がサーっと広まったのも、「つもり」のこころには分りやすかったからです。念仏を唱えれば、死後は極楽浄土に行けるという教えですから。神を信仰する宗教が人気出るのも当たり前。西洋の一神教は、「つもり」の世界の代表です。そういう智慧のない、論理性のない人々の考えを見るとよくわかります。一般の人はそれなら分かりやすい。論理的な正しい方法はやりたがらないのですが、「水をかぶれば罪が消える」と聞いたら、飛んでいってやりたがる。こころを持っている生命には、人間に限らずそういう問題があるのです。

自分で期待をして、自分で幻覚をつくって、なった「つもり」になる。でも何か困るのです。そこで新しい希望を作って、挑戦してなったつもりになって、またちょっとちがうから、次の希望をつくって......無限に続くんです。「つもり」の輪から、脱出できないのです。

■行ったことのない場所のガイドブックを書く


真理は、「花より団子」なんです。
花より団子を取る人こそが賢いのです。
こころは間違えて、花より団子は間違い、という生き方をしているのです。

そういう、ややかしいところがあるから、お釈迦様はsvaakkhaata、sammadakkhaataという言葉を使っています。人にそれを改良する資格はまったくない。悟りに達していないんだから。歩んだことのない世界のガイドブックを作るものじゃないのです。ガイドブックを作る資格があるのはそこを歩んだ人なのです。
しかし人々は、自分が歩んだことのない、経験したことのない世界について、自分でガイドブックを書いてしまう。書いて、それからやってみる。すると、「つもり」になるんです。子供はよく「つもり」遊びをやっています。フィギアを持ってきて、いろんな怪獣の話やら、いろんなキャラクターを持ち出して。あれは子供たちの「つもり」あそびです。つもり病は子供のこころを見るとちゃんと見えます。

人間にある、「つもり」病にかかると、悟れません。だから解脱に達する人は少ない。
「死は乗り越えがたい」のです。

■「自分の意見」で経典を解釈する危険

注釈書では、岸でうろうろする、という言葉を 「有身見のこと」だと説明しています。経典の注釈書でも、仏道はみじんも改良不可能なものである、ということは言っていない。そのポイントは見逃してしまうのです。
注釈書を書いた上座仏教の長老たちは、ブッダの言葉は金言で絶対的な言葉で変えることはできないと、基本的に決まっています。最終決断はブッダの言葉を調べて、何か言葉があったらそれで結論。しかしブッダの言葉を解説するために異論が成り立つとどうにもならなくなる。問題が起こるのはブッダの言葉を解説しようとするときです。それで、自分の意見で経典を解説することになる。やがては、自分の意見をブッダの意見にするんです。

■輪廻転生もわかった「つもり」

先日、あるイギリス人が、中国系のお坊さんが書いたテーラワーダ系の本を持ってきて、輪廻について質問してきました。私はまず、「『自分には理解できない、私には分かりません、だから真理ではありません』ということは成り立たない。それだけ覚えておきなさい。それはヨーロッパ人がよくやることです」と釘を刺しました。彼もそれを理解した。彼が持ってきた本を読むと、「輪廻は心理の変化のことだ。人はその都度、地獄に落ちたような苦しんだり、ほんの時々は天界にいるように落ち着いたりして、人格が変わるでしょう。それが輪廻のことですよ」と、みごとに輪廻転生の教えをカットしている。それで、その本を読んだ人は、「生命はこの命に限られる」という証拠も何もない結論に達してしまうのです。つまり、ブッダが超越的な智慧で発見した輪廻を、単に自分の知っている世界で説明しようとするのです。それで輪廻を、知っている「つもり」、わかった「つもり」になる。釈尊の説かれる輪廻は、過去生を目の前で経験するような能力ある人だけに実証される概念です。過去(過去生)を見る。過去を見て、過去があるなら将来があるのも当たり前だと推測するんです。仏教で問題にするのは、なぜそうなったのか?という原因です。その原因を取り除いたのかと。取り除かないで、ただ生きてきただけだから、それで、また生まれてしまった。仏教の修行というのは、また生まれる原因を取り除くことです。それを自分の理屈で理解しようとすると、「つもり」の世界になる。なるほど、よく理解できたと、わかった「つもり」になるのです。

■真理を語る人、真理を守る人

本を書く人の間違いは、「輪廻とはそのようなものである」と書いてしまうことです。「私は自分のわがままでこのように解説するのです」ということならば、結論が間違っていても問題は少ない。釈尊は「真理を語る」「真理を守る」という二つのことを言っています。「私はこう解説する」というならば、真理を守っています。私が文章を書く場合、「○○です」と「○○と思います」は微妙に区別します。「○○でしょう」と使う場合もあります。いくらす早く読み合わせをしても、動詞には気をつけるんです。
この偈ふたつのポイントはsammadakkhaata、「つもり」世界へのブッダの注意です。仏教以外何も知らないような人であっても、気をつけないといけない。訂正する「つもり」になるのです、道を。

■仏道はただひとつの道

(質疑応答から補足:経典はたくさんあっても、仏道はひとつしかないのです。マニュアルだから、ひとつしかない。 機械のユーザーマニュアルがたくさんあるわけではない。たとえば、Windows Vista の使い方を解説した本はたくさんあります。しかし、『90分で分かるVista』であっても、分厚い『Vistaバイブル』であっても、結局同じことで す。きめ細かく専門的ないらないところまで書いているか、いつも使うところに絞った説明かというだけのこと。結局、Windows Vistaの使い方は決まっているのです。電子レンジのマニュアルが、マンガで書いてあっても、文章でも、英語で書いてあっても、結局使い方は同じです。 お釈迦様の説かれた経典(パーリ経典)も当然たくさんあります。経典ではいろんな論点を分析して説明しますが、仏道(修行)についてはワンパターンで終わ り。決まった同じパターンがあります。微妙にも言葉も変えません。
......
たくさんの経典から好みの経典を選ぶのは構いませんが、「仏道がた くさんある」ということは成り立たないのです。解脱・悟りというこころの転換を起こす方法は、たくさんありえるはずがない。「つもり」世界だったら、それ はいくらでもあり得ます。お釈迦さまは、医者に例えて説明するのです。「病気なら病気になった原因があります。それを無くす方法はひとつしかない。薬なら 何でもいいわけではないのだ」と。テーラワーダ世界でたくさん瞑想法がありますが、それは入り口の、アクセスの差だけです。初心者に瞑想を教えようとする 場合は、不浄瞑想でも、呼吸瞑想でも、入門編として、知られている方法を取り上げるだけ。ヴィパッサナーに入ったら、道は一つです。東京で新幹線に乗ろう としたら、品川か東京まで行かないといけない。そこまでは近道であろうが、遠回りであろうが、どのルートを使ってもいい。勝手にしろよと。しかし、東京駅 からは新幹線一本になります。)

■解脱にいたる「善のストレス」

輪廻を脱出するというのは大変なことです。
木曜日の朝日カルチャー教室で、悟りに達するために必要なエネルギーについて、初めて紹介しました。輪廻を脱出するためには、かなりエネルギーが必要なのです。いろいろ工夫して悟りに達するエネルギーを貯めないといけないのです。生きているとどうしてもストレスはたまります。悪ストレスをやめても、善ストレスもありますよ。どうしても、エネルギーは必要なのです。悪ストレスはあまり貯まらずにすぐ自己破壊します。でも善のストレスを貯めるのはたいへんです。貯めて貯めて、善のストレスを爆発して悟るのです。高跳びと同じで、みじんにでも思考が入ると飛べない。一点にすべてを集中するのです。飛ぶ瞬間、人には記憶がありません。何が起きたか分からないのです。

maccudheyyaM suduttaraM 死王の領域はそう簡単に飛べない。エネルギーが必要だということになるのです。

DSC_5627.JPG(質 疑応答から補足:善のストレスを貯めるためには覚悟しないといけない、たいへんだと。でもやるんだよと。それも法則で、嫌なものだからやるのは嫌、という のはとんでもないことです。何かやり遂げたければ乗り越えなくては。道は険しいということを覚悟しないと。その覚悟もなしに、登山してみようとしたって、 何にもならないのです。つかれた、寒い、やめたーっ、もどりましょうと。それって人生でしょうか? 寒いこと、雪が降っていること、うっかり滑落したら死 ぬことも覚悟のうえで、登山家は頂上を目指すのです。頂上まで行ったら、ストレスが解消されてすごくリラックスできる。そこまではストレスです。善のスト レス、つまり悪を止めて善に生きることも、頑張らないと淡々とは進まないのです。悪いことだけにストレスというのは現代語の間違い。ストレスの原意はエネ ルギーが溜まるということです。生きている限りストレスは貯まります。しかし、悪(貪瞋痴)のストレスではゴミが貯まるだけ。善(不貪不瞋不痴)のストレ スでは宝物が貯まるのです。それでも重いことは重い。悪を歩むと臭いゴミが溜まります。それで捨てたくなる。目的地に着いて袋を開けてもゴミばかり。善の 道を歩んでも重いものが溜まる。でも捨ててはいけない。重い、苦しい、と思っても、最終目的について袋を開けたら宝物なのです。善のストレスは自己破壊に はならない。しかし、あーつかれた、止めたくなったという気持ちは当然出てくるんです。善い道は目的に達するまで、ストレス覚悟でやらないといけない。善 のストレスと悪のストレスの違うところは、善のストレスは、身体にも、こころにも悪影響まったくないことです。善のストレスとは、こころが成長したいスト レスなんです。物を破壊する時も疲れるし、作る時も疲れます。でも、(貪瞋痴で)ものを壊して疲れても意味がないのです。何か素晴らしいものを作るために (不貪不瞋不痴で)頑張って、それで疲れたとしても、立派な作品が完成しているのです。云々。)

メモと文責:佐藤哲朗

2008年10月25日ゴータミー精舎で開催されたスマナサーラ長老「ヴィパッサナー瞑想と法話の会」初心者の方との質疑応答より。

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幸福も不幸も自分が決める

Q 仕事をしていて過去のことを思い出したり、嫌なこと、失敗を思い出したり、将来を心配してしまったりして、目の前の仕事に集中できないことがあります。どうすれば、いまに集中できるでしょうか?

A 瞑想で最初に解決するのはそういう問題です。瞑想実践で悪い癖を直せば、ほとんど、人間にとっての問題は解決すると思います。私たちは自分の運命のことを、自分で考えているのです。別にどこかの誰も自分の運命、幸福、将来性、誰も管理しているわけではない。自分でやっているのです。不幸になる人は自分で意図的に不幸に、失敗する人も自分の計らいで、意図的に自分で失敗する。何でも自分で計画立ててやっていることです。そう理解して下さい。大失敗して仕事失敗して大変な人も、そういう計画なんです。それをまず理解してほしい。人に何も言うことは出来ないんです。自分の運命というものは全部自分がしっかりと計画立ててやっているんです。その結果として見事に、不幸になる計画の人は不幸に、幸福になる計画の人は幸福になる。だから、計画通りうまくいくんです。

 そうなると疑問が起こる。誰でも不幸になりたいなど思っていない、幸福になりたいと計画立てるのが普通でしょう、と。そういう疑問が成り立ちますね。成功したいと思ってもなぜ成功しないのか。幸福になりたくてもなぜ幸福になれないのかと。

 事実は、自分が失敗を成功だと思っている、不幸を幸福だと思っているということなんです。それで計画を立てて実行しますから、結果が出たところで、「なんだこれ?失敗じゃないか」と思ったりする。嫌なことを思い出して、将来に不安を抱いて仕事に身が入らない。それで結果は不幸になる。でもやってしまうんです、目の前のことより、こちらの方が面白いと。好きでやっているんです。好きでやっているから、なかなか治らない。嫌でやっていることは、やめろといわれるのを待っていて、止めていいなら喜んで止める。好きなことはやめろと言われても、隠れてやってしまう。子供は、ゲームをやると頭が悪くなると知っています。でも勉強しないでゲームをやるでしょう。いくら頭悪くなっても、バカになってもゲームの方が面白いんです。やりたいんです。人間を観察すると、小さい頃から、その人ごとの計画で生きているんです。観察すると、それが見えます。この人はこういう計画で生きている。その計画変えないならば、将来はこういう結果になると、計画変えないならば、という条件付きで予想して言うこともできます。

 では、どうすればいいんでしょうか。
 好きでやっているんだから、他人には管理できないでしょう。

 せっかくですから、単純に方法というより、人生について勉強しておきましょう。
 私たちは一人ひとり自分で作った計画があって、好んでやっている。自分にさえ変えられないんです。だから客観的に人生を見て、どういう生き方で幸福になるのかと、客観的に勉強してその上で計画を立ててやらないといけない。その場合は好んでやるということはなかなか出てこないから、がんばって精進して行うということにしないといけないんです。

 幸福になることは嫌いで、不幸になることは大好きでやめろと言われてもやる、という考え方は私の知ったことではないんです。他人がそうしたわけでもないし、自分自身がやっているんです。

 最初は好きでやっている悪い事を止めるためには、踏ん張った方がいいんです、最初の一歩は。勇気を出さない人は、新しくものごとを考える勇気、ものごと・人生を変えることの勇気というのも、人生の計画の一部なんです。でも、「腰を上げたくない」人は、そのために計画を立てるんです。そういう人の場合、見込みはほとんどない。まず勇気を出して立ちあがるということが必要です。判断力と実行力、まとめて仏教では「精進」というんです。過去を思い出すことも、将来を思い出すことも、自分が不幸になるために好きでやっていることだと理解してみれば、「こんなことでいいのか。成功して幸福になって何がわるいのか」と自分の頭が判断するでしょう。それが一つ、怠けもののやり方で、勇気のある人なら、「これっきりやらないぞ。幸福になってやるぞ」と、いきなり決めるんです。何か方法がないのか、という場合は、だいたい「やる気」がないんです。このままでいいや、ということなんです。それは本音を建て前でごまかそうとしているんです。建て前でいいことばかりいうと、本音がとんでもないんです。

 方法なんてないんです。ただ止めるだけ。やめる方法を聞く?自分でやっていることを止める方法ありますかと。自分で水を飲みながら、「あのぅ、水を飲むことを止める方法ありますかね?」と。自分が止めればいいでしょう。ゲームをやりすぎるから止めたいんだと、ゲームを隠したり、鍵をかけてしまったり、そうやって何か止める方法はないかと。そんなのは、バカな方法です。必要ない、自分が止めればいいんです。

 こういう質問はよく聞かれます、何か方法ないかと。でも、自分でやっていることに「方法」はないんです。誰か他人が来て邪魔をするのであれば、方法があります。でも、自分でやっているんだから。そういう心のポイントを覚えておいてください。

ありのままの自分―アイデンティティの常識を超える (お釈迦さまが教えたこと 4) 心を清らかにする気づきの瞑想法 ライバルのいない世界―ブッダの実践方法 (スマナサーラ長老の悩みをなくす7つの玉手箱 1) 悩まない力―あなたの心に秘められている (プラチナBOOKS)

 他に質問ないですか。ないでしょうね。聞きたいことは同じでしょうから......。

戦争と仏教

Q 有名な禅宗のS老師が、日露戦争で従軍して、優秀なので活躍してたくさんロシア人をやっつけた(殺した)という話があります。日本は大乗仏教ですが......お坊さんが召集された時は拒否しないといけないものでしょうか。

A 過去の出来事については私には何とも言えませんが。戦争しよう、人殺せというのはイスラム教やカトリック教の伝統でしょう。でもカトリック教の神父さんを召集しませんね、日本であっても。だらしない大乗仏教でも、「殺生しなさい」とは言わないんです。個人で悪いことしても、反省して謝って自分ががんばる。それは人間の普通の現象です。日本では昔は肉魚も食べなかった。そういう教えがありながら、戦争に召集されると、ノコノコ出て行く。でもカトリック教の神父さんを召集する勇気は、日本人にもなかったのに。

 そういう、人間らしからぬ恥ずかしいことについては、私の意見を聞かない方がいいんです。世の中というのは屁理屈、矛盾だらけです。Sさんにしても、人格的に矛盾じゃないですかね? 一般人が戦争に召集されて、いろんなことやって、けしからんことだったと、終わってから反省して坊主になったという人たちは、人格的には立派になります。自分がそういう悪いことをやって、この道に入った。悪いことは悪いんだよと知っているんだから。最初から、殺すなかれと教えている組織で出家しておいて、召集されたら兵隊に行って人殺しをして、あとでノコノコと戻ってきて、また説教するというのはどういうことでしょうか。やっぱり、人間が情けないということなんです。一般的に、誰でも善いことにはいつでも気が弱い。悪いことなら勇気を出して頑張ってしまうという。悪いことならみな一致団結して勇気出してがんばる。善いことになると言いわけばっかりする。殺すことは決していいことではないんです。殺す気持ちがあるから殺されるんです。殺されかけて、あいつが悪いんだから殺すんだぞと言ってもね。「殺すことは悪い」という文化が世界にないでしょう。

 アジアの国でも、キリスト教の基準で構成されて、殺さないことは野蛮人だ、鉄砲を持たないことは悪いとさんざん言われましたからね。スリランカでは、いまもくたくた言われます。でも仏教のお坊さんは、冗談にでも鉄砲には触りませんよ。見ることもしないんです。でも、(キリスト教資本が支配する)新聞マスコミでは、「仏教の僧侶は血に飢えているんだ」と攻撃する。実際に人殺しをするテロリストならば、一生懸命応援している。鉄砲に触れることもない僧侶をつかまえて、「血に飢えた坊主どもの責任である」と。だから、一回でもお坊さんがテロリストと戦ったことあるのかと。タミル人を攻撃したことがあるのかと。キャンディの本山にもよく脅迫状が来ますよ。お前ら全員、爆弾で吹っ飛ばしてやるぞとか、とても気持ち悪い汚い言葉を使ったりとか。でも本山の貫主さまは、みな仲良くしなけれといけないんだと、誰のことも攻撃しないように話している。でもそういう話はマスコミに載らないんです。たとえ載ってもシンハラ語新聞だけ。英語では僧侶は「血に飢えている」という話です。

 世の中では、人の物を奪うことしか教わってないでしょう。資本主義とか言っても、要するに「泥棒のススメ」でしょう。どんな事をしてでも、とことん儲けろ、金があることが正しい、金がなければ犯人で悪いと。そういうことで、人々が生きることは二の次、自分だけ生きていればいい、という態度なんです。一人に必要なものをはるかに超えて、100万人分の資源を一人で集めて、使うこともできないでいる。

 (白人の識者たちは)二酸化炭素減らそうと言いながら、個人でジェット機に乗って行きたいところに行くんです。それでわれわれに説教するんです、「二酸化炭素減らしなさいよ」とね。そういうアベコベの文化に攻撃されても、私たちスリランカ人は彼らを逆に野蛮人あつかいしましたからね。「白人には文化も、道徳のかけらもないんだ、気をつけろよ、付き合うと自分たちも野蛮人になるんだよ」と。
 いまの流行りは、キリスト教から、イスラム文化になりかわってますから。どちらも「殺せ、殺せ」という、「殺しなさい、奪いなさい」という文化なんです。精神的に弱い人に負けるのは情けないことです。鉄砲よりは精神の方が強いんですけど。

 だから、答えがないんです。そういう狂った価値観から出てくる疑問には。戦争に行くべきか否かとか、国が決めたんだけどどうしようとか。元から間違いですからね。なぜ最初から、キリスト教文化にあわせて生きようとするのか。だから混乱するんです。日本にしても、昔は「西洋に対抗しているんだ」とか、「天皇陛下が神だ」とか。結局、キリスト教文化と同じことでしょう。向こうのかわりに、対抗してこっちも新しい神を作りますよと。

 日本の新興宗教見てみてください。みんな同じパターンなんです。開祖様が神様で、その人が死んだら息子や娘が神様になるという。宗教というのは個人の精神状態でしょう? それを自分が死んだら次は息子、というのはどういうことでしょうか。もしかしたら、その息子は一回もその宗教の教会に行ったことないかもしれません。ある新興宗教団体の開祖の息子は、小さい頃からヨーロッパに留学して、むこうで贅沢したい放題贅沢して、むこうで教育も受けて、もう中身はヨーロッパ人なんです。それで開祖様が死んだら戻ってきて、息子に跡を継がせると。信者さんもありがたがって喜んじゃって。どれほどバカかと。

 小さい会社では世襲もあるけど、基本は能力次第でしょう?お父さんがパイロットだから、息子も自動的にパイロットになってもらいますとか、そんなことはあり得ないでしょう。本人が努力していかないといけない。父がパイロットであることは何の影響もないんです。家に参考文献があって、宿題を手伝ってくれるくらいです。何考えているのか、自分でわからないのに考えているんだから。日本はなぜ戦争したのかと尋ねると、いろんな人がダラダラ話してくれますけど、バカバカしくて聞いてられない。私からすれば、一つも理由にならないんです。

 スリランカの田舎の人は、植民地時代にイギリスから召集されても、兵隊に行かなかったんです。英語もできない人々でしたが。「いえ、私たちの宗教では殺してはならないですから、行きません」と。彼らをひったてて軍事法廷にかけて皆殺しには......できなかったんです。しょうがないから兵営には入れて、戦闘に関係ない仕事をさせることになった。だから、昔はスリランカには、鉄砲に触ったことがない兵隊がいたんだから。大英帝国が相手でも、相手が折れて負けちゃったんです。仏教徒の精神の強さは並のものではないんです。キリスト教文化は、いちども仏教文化を屈服させることができなかった。その恨みがあって、いまだにいろんなカラクリをして仏教を攻撃するんですね。でも、いまのお坊さんはぜんぜん気にしないという態度です。私みたいに厳しく言いません。かえって相手を乗せてしまって、懐に飛び込んで、協力して仲間にしてしまう。それが出来るのも仏教だから。しっかりした文化があれば、何も問題ないんです。

 そういう自分たちの文化がありながら、かっこつけて他の文化をかぶってしまうと混乱するんです。権力者たちは、特にかぶり文化を受けてしまう。権力者は他の人々に差をつけたいから、他の文化をかぶるんです。それからは大変ですよ。教育システムも、働き方も、生き方も変わってしまって。でも一般人にはそれまでの生き方もあったりして。グチャグチャ混ざってまずい料理になりますよ。刺身にマヨネーズかけるような感じで、食えるんだけどなにか問題があることになるんです。

 はい、時間になりましたから、これで終わります。
(メモと文責:佐藤哲朗)

禅と戦争―禅仏教は戦争に協力したか 戦争は罪悪である―反戦僧侶・竹中彰元の叛骨 もうひとつの島国・スリランカ―内戦に隠れた文化と暮らし スリランカ―人びとの暮らしを訪ねて

 
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

2008年9月27日にゴータミー精舎で行われた、スマナサーラ長老「ダンマパダ講義」のメモです。久々のダンマパダ講義は、やっぱりすごかった。ここに書くのはかなり"自分なり"のまとめですが、参考にしていただければ幸いです。(文責:佐藤哲朗)

IMG_3985.JPGna attahetu, na parassa hetu,
自分のためにも、他人のためにも、

na puttam icche, na dhanaM, na raTThaM
子供(子孫・親族への保護)でも、財産でも、国(権力)でも、

nayicche adhammena samiddhim attano,
不法(罪を犯すこと)による成功・繁栄は望まない。

sa siilavaa, paJJavaa, dhammiko siyaa.
戒律ある人、智慧ある人、真理に達した人とはそんな人でしょう。
(Dhammapada 法句84)※

智慧の完成者は、罪を犯して何も得ようとはしないのです。真理を守る人は真理に守られます。真理を守る人を倒産させること、つぶすことはできない。たとえ国家権力でも無理です。半信半疑で道徳を守っても負けますよ、本心ではないのだかから。真理を守ることに心が決定になったら、その人は真理に守られる。それは心の法則によってそうなるのです。物質の法則も好き勝手に変えられないように、心の法則も変えられません。

仏道を完成して悟りに達するにはどうあればよいのでしょうか? 「成功したい・繁栄したい」という気持ちがあっても、心の中で「罪は犯しませんよ」と断言的に決めている。そのように心が決定的になることです。最初は無理にでも決定しておくこと。少々時間が経つと、それが心の本心になります。そうなると、その人は必ず悟りに達するのです。最初に心を決定しておけば、解脱に向って自動的に進む。それがダンマパダ84番の教えです。

「罪だけは犯さない」。それだけです。ブッダは、人間がふつうに生きていることは否定しないのです。むしろ、この偈の教えを実践するためには、ふつうの社会でふつうの社会人として生きる必要があります。そのように生活しながら、微塵も罪を犯さないぞ、と。そう決めることで、本人の生きる道がそのまま修行になるのです。それで解脱に達することができる。家族の面倒を見て、仕事して、友達も大切にして、でも、ちょっと一つだけ、心の中で変わるのです。「何があっても罪は犯しません。真理は破りません」と。

注意してほしいことですが、この4行の詩は、途中では切れません。がっちりとした論理構成があるからです。1~2行で状況を説明して、3行目でsamiddhi(成功・繁栄)という言葉にまとめて結論付けている。不法に成功・繁栄(子孫・財産・権力)を求めるなかれと。だから2行目と同じicche(iccha 求める)という言葉を使っています。

1~2行目で切って「自他のためにならないから、子供も、財産も、国も求めない」と引用してしまうと、反社会的・反人間的な思想になってしまいます。(実際、そのような訳文が多い)

3行目が釈尊の結論なのです。nayicche adhammena samiddhim attano,
ここは安全に引用できます。4行目は、3行目を受けての別の結論です。

釈尊の道徳は、俗世間の道徳と違うが、普遍的に「人間の幸福」を語っています
「子孫・財産・権力」を「不法に(非道徳的に)」望むなかれ、ということです。
2行目は、3行目のsamiddhiの具体的な説明です。つまり、人間にとっての成功とは何かという具体例を挙げているのです。

(皆さんは誤解されているようですが、)この偈では、出家主義を語っているわけではありません。
誰もが真理を守り、真理に守られる道を説いているのです。

仏教の実践とは、論理的な生き方です。何かの宗教を信じることではないのです。(因縁という)自然の法則にしたがって生きるということです。結婚式をキリスト教会であげなくてはならないという法(ダンマ)はない。自然の流れで現象がでてくるだけで。人間が結婚することも同じ。一人では子育てできないから、結婚ということになっている。それだけのことです。神が決めたことではありません。

そこで神の前で愛を誓うとか、そういう変なことをさせるのは宗教ですよ。仏教は何一つ変なことはさせないのです。変なことさせた時点で、単に「変」です。因果法則とはそういうこと。変は変なのです。変なことはあり得ません。世の中で、偶然というのはまったくありえない。偶然、偶然と口癖のように言うのは、その人の愚かさの表れです。ただ自分が期待しなかっただけでしょうに。偶然などあり得ないし、変もありえない。ふつうの(因縁の)流れなんです。

流れを勝手に変えることはできません。変えてはいけない。因果関係を知らない人が、流れを変えるとどんな結果になることか......。仏道とは他宗教のように「変な事」をする教えではなく、因果法則の流れの中で成長して、解脱に達する道なのです。

生命に自然にある、成功したい(繁栄したい)という気持ちは取り消せません。
それは放っておいて、真理に従って成功・繁栄する道を説くのです。

「何一つ罪を犯さずに生きるぞ」と実践することが、すなわちsati(気づき)です。
参照:「戒があるところには慧があり、慧があるところには戒がある。」(D.I.p124)。

気づき(sati)なしに「罪を犯さないこと」はできないのです。
だから、この偈を実践するだけで解脱に至ります。
四念処の実践も、八正道も、すべてこの偈の中に入っています。

ブッダの言葉は、完璧に語られています。たくさんのブッダの言葉のなかで、自分に分かりやすい偈を選んで実践すればいいのです。実践すると、自分でそこに八正道を発見することになります。しかしやるからには、24時間実践しないといけませんよ。(この偈の場合は3行目nayicche adhammena samiddhim attano,に24時間気をつけていることです。)

だから、やってみようとすると、けっこうキツイんです。
でも、本気でやれば、二週間くらいで預流果には悟りますよ。

※ワンギーサ師のブログ「困った時はダンマパダ」記事を参考に、訳文を修正しました。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

「鬱(うつ)はなぜ起こるのか?」(38分41秒)をダウンロード

Img_3972 2008年7月19日「名古屋初期仏教デー」(日本ガイシフォーラム)でのスマナサーラ長老のご法話より。鬱はなぜ起こるのか? 理性の欠如がもたらす鬱病社会、「怠け」という猛毒、喜びが脳と心の栄養、など短いご法話の中に現代社会の病理を余すところなく分析し、そこから脱出する道までが見事に説かれています。

※法話メモは↓下のリンクをクリック!

「最高の心とは?/嫁姑問題はなぜ起こる?他」(48分53秒)をダウンロード

2008年6月21日に開催された名古屋初期仏教デー(日本ガイシフォーラム)でのスマナサーラ長老のご法話音声(質疑応答)を2回に分けてDhammacast配信します。第2回目は、前半とは打って変わって、子育ての悩み、嫁姑問題の原因と対応法など、地に足のついたやりとりとなりました。

「当たり前を認める智慧、『いま・ここ』で幸福になる道」(57分23秒)ダウンロード

2008年6月21日に開催された名古屋初期仏教デー(日本ガイシフォーラム)でのスマナサーラ長老のご法話音声(質疑応答)を2回に分けてDhammacast配信します。第一回目は、輪廻についての質問への答えを通じて、無常を理解しようとしない、私たちの「あべこべ思考」への鋭い批判が展開されます。

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