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2009年10月16日、佐賀新精舎(佐賀県鹿島市音成)で初となるスマナサーラ長老指導の瞑想会が開催されました。静かな農村風景のなかにある精舎で行われたご法話のメモをご紹介します。困難な状況下で、農業に携わるすべての人々に、読んでいただければと思います。

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「......こういう場所では、お釈迦様の時代と同じ環境で説法できるんですね。おだやかで静かで、農業で生活している、こういうところでは仏陀の教えはものの見事に語られます。大都会ではちょっと難しいんです。

 みなさんの仕事は、人間がいる限り、欠かせない、絶対やらなくてはいけない仕事なんです。他の仕事、服のデザインとか、美容師になるとか、音楽家とか、そういう仕事が成り立つのは、人間が食べていけているからです。食べて幸せでいるから、もうちょっと遊びましょう、楽しみましょうというところでかっこいい服を探す。だから髪の毛も、というのはずっと後で出てくることです。まず、命をつなぐために栄養が必要なのです。それをつないでいるんだから、食べ物を作るということは、たいへん大事な仕事です。職業そのものも徳行になる。食べられる作物を植えて育てるだけで、善行為です。それで人が生きているんですから。

 農業はそれ自体が徳になる、「徳行」です。......この世界で、仕事イコール徳行になることはなかなかありません。ですから、そういう気持ちで仕事してほしいんです。たいへんなことだ、遊びじゃないんだ、人の命を預かっているんだと。

 皆さんには嫌われていますが、このへんのイノシシも、おかげで贅沢しているでしょう。皆様の畑にイノシシが入って食べて、皆様の努力で彼らも豊かに生きている。皆様が動物たちも幸福にしてあげているんです。イノシシは作物を盗んでいくけど、それでも、「しょうがないんだ、イノシシも元気でいてほしい」という気持ちでいると、被害は少なくなるんです。農業して残った作物は、動物たちの分なんです。慈しみを広げていくと、不可思議なことに、動物も残ったもの、役に立たないものを食べていくんですよ。

 農業をしていると、ものごとは毎日変化するというのが、よく見えます。さっきも藤井さんと話していたけど、オクラが育って育って、朝も昼も二回も収穫しないと追いつかない。で、明日収穫するぞ、と思ったら、もう売り物にならなくなってしまう。そのくらい早く変化するんです。みるみるうちに変化する。ものごとは絶えず変化している過程です。一瞬も休めない人生なんです。稲といっしょにわれわれも年をとっていく。麦をつくって、米を作って、また麦を作ってと、休めない。体感していますね、わがままいえないこと、流れの中で生きていかなければならないことを。

 自然の法則は摩訶不思議です。みんなが頑張ると、因果法則の中で、一時的な結果が出るだけ。おいしそうなオクラも、明日、収穫するのではダメです。今日、取らないといけない。結果も一時的です。そうやって生きていると、なんでも無常で流れているんだとわかるでしょう。でも、原因がぜんぶそろったら豊作になるかというと、それもわからない。台風が来たらどうなるか、日照になったり、雨が降りすぎたりしてもダメでしょう。そういう条件もそろわないといけない。

 無常といったら、なんでもかんでも無常です。しかしすべて因果法則の中なのです。ひとつもわがままは通じません。人間が貢献するところはほんのわずかで、無数の因果関係の流れの中で、条件がそろったら豊作になる。それさえも一時的で、それは誰か(絶対者)がやっているわけではないのです。「すべて因果法則である、縁起である」と、毎日、体感できる。(農業を仕事にする人々は)仏教を理解するために、心清らかにするために、すばらしい環境にいるんです。......」

(2009年10月16日 佐賀新精舎でのスマナサーラ長老ご法話より。メモ・文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

2009(仏暦2553)年5月24日(日) ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日チラシ去る5月24日に国立オリンピック記念青少年総合センターで開催された日本テーラワーダ仏教協会のウェーサーカ祭・釈尊祝祭日の写真レポートです。(ケイタイのカメラのため、低画質御容赦を......)

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ステージに飾られたウェサック・クードゥワ(ウェーサーカ灯篭)。日本のお盆灯篭が原型だそうです。

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ロビーの展示。スリランカの仏教文化の紹介、ブッダの生涯を描いた細密画パネルなどが、所狭しと掲げられていました。

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書籍販売コーナー。ブックアドバイザーによる丁寧なポップも魅力。

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ブッダのフェルト人形。『パティパダー』の表紙を飾った根岸まりさんの作品。

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『パティパダー』の表紙を飾ったさまざまなアーティストの原画展。写真はたまきゆきこさんの作品。

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ロビーには日本の電灯である「花祭り」の花御堂(誕生仏のお堂)も再現されました。ちょっとした仏教文化テーマパークといった風情でした。

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小さなお子さん向けに、ロビーでは青年部によるジャータカ紙芝居も上演。また、開演までのひと時、ステージではブッダの生涯をGoogle Earth画像で再現したスライドショーが上映されました。

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13時の開演とともに僧侶のお練り行列が法螺貝を吹き鳴らしながら行進。ステージ中央にお釈迦様の坐像を安置して、ウェーサーカ祭がいよいよスタート。

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テーラワーダ仏教比丘サンガと日本大乗仏教僧侶による仏賛法要と来賓挨拶を経て、パーリ仏教学の権威である前田惠学先生(文化功労者)による記念講演『仏教の開祖 釈尊』が行われました。

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休憩を挟んで、スマナサーラ長老によるウェーサーカ記念法話です。

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続けて、参加者との活発な質疑応答が交わされました。

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ウェーサーカ祭をしめくくる、比丘サンガによる祝福の読経が会場に響き渡ります。

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閉会(30分ほど延びました)後、比丘サンガより祝福の聖糸と聖水の授与がありました。

まだ集計はしていませんが、当日は500人から600人ほどの方が参加してくださったようです。新型インフルエンザの流行で外出を控える方も多い中、足を運んでくれた皆様に心より感謝申し上げます。

釈尊の出現を祝う法要に参加された功徳によって、皆様と、親しい人々と、そして一切衆生が、幸福でありますようにと祈念いたします。ありがとうございました。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
ご報告が遅れましたが、去る5月8日(金)、藤井敬三さんの寄進による日本テーラワーダ仏教協会三番目の精舎、佐賀新精舎(佐賀県鹿島市音成)が開基されました。当日の落慶式にはアルボムッレ・スマナサーラ・ナーヤカ長老が招かれ、盛大な法要が営まれました。

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佐賀新精舎の外観

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精舎内部の様子。畳敷きの落ち着いた雰囲気です

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寺犬さん

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施主の藤井さんが営む自然農園を見学する参加者

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たわわに実った木イチゴ

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祝福法要の様子

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記念法話をされるスマナサーラ長老

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参加者への聖糸と記念品の授与

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
本日(2009年5月17日)09:30より、兵庫県三田市対中町のマーヤーデーヴィー精舎と付設のダンマチャッカマハーシーマー(戒壇堂)において、入仏式と比丘サンガへの精舎お布施式とサラナンカラ比丘(俗名:高橋和之さん)の出家式、そしてウェーサーカの集いが開催されました。

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出家式の朝を迎えた高橋和之さん

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ご本尊のお釈迦さまを精舎にお迎えするパレードの準備風景。ゴータミー精舎(東京都渋谷区)、アラナ精舎(大阪府岸和田市)、正山寺(東京都八王子市)、そしてスリランカから参集された11名の比丘サンガのお坊様方と。マーヤーデーヴィー精舎近くの駐車場にて。

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マーヤーデーヴィー精舎に向かって進むお釈迦様とスマナサーラ・ナーヤカ長老をはじめとする比丘サンガ、在家参加者ら。

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マーヤーデーヴィー精舎に到着したパレード。

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精舎に入場するお坊様方と出迎えの人々。

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本日の大法要の告知文が張り出されたマーヤーデーヴィー精舎の掲示板。

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2階本堂にて入仏式法要の準備中。

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入仏式法要の様子。比丘サンガと参加一同、お釈迦様に向かって三帰依五戒と読経、慈悲の冥想を修する。

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マーヤーデーヴィー精舎2階本堂に安置されたお釈迦様坐像。

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引き続き、戒壇堂に移動して高橋和之さんの出家式が執り行われた。戒壇建立後、はじめての法事が比丘出家式というこの上ないめぐり合わせに、戒壇内は厳粛さとともに明るい雰囲気に包まれた。

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比丘出家に先立ち、沙弥として法衣をまとうことの許可を比丘サンガに請願する高橋さん。

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戒壇堂での出家式の様子は境内の仮設テントや本堂、そしてインターネットでも中継された。

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沙弥出家の後、改めて比丘戒を授けてもらうことを比丘サンガに請願し、入門のための問答を行う。2500年変わることなく続くこの儀式の後、サラナンカラ比丘が誕生した。

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記念すべき出家式を指揮したのは比丘サンガの最長老であるスマナサーラ・ナーヤカ長老。長老方はみな重衣をまとった正装で臨まれていた。

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出家式を終えて、お釈迦様と比丘サンガへの昼食のお布施。マーヤーデーヴィー精舎でのはじめてのお布施です。

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続いてお昼休みに。アクリルのプレートに掲示されたマーヤーデーヴィー精舎建立のお布施者リスト。自分や友人・家族の名前をみつけて写真に撮る人も(うれしくて、私も撮りました)。

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ボランティアの皆様の名前を書いた「感謝のツリー」。

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インド仏教聖地の砂と仏足プレート。本堂脇の廊下に展示。

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14:00頃から、午後の部。マーヤーデーヴィー精舎を四方比丘サンガにお布施する儀式と、ウェーサーカの集いが行われました。開会の言葉を述べる小西純一会長。悪天候の中、200名もの老若男女が集いました。

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あらためて、お釈迦様に供花と灯明、香をおそなえする。功徳を分け合うために、全員で手を触れます。

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子供たちが、お坊様に教えていただきながら、お釈迦様におそなえをします。

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インダラタナ長老の英語での法話、ダンミッサラ・ナーヤカ長老のガーター読誦につづき、記念法話をされるスマナサーラ・ナーヤカ長老。ブッダへの信頼が人生を成功に導くという力強いお話でした。

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スマナサーラ・ナーヤカ長老のお話を受けて、挨拶をされる大施主の天野陽子さん。マーヤーデーヴィー精舎の土地と戒壇堂建物を寄進し、精舎完成まで建設委員会の中心でご尽力されました。続いて建設委員長の藤本晃師、笛岡泰雲老師からも挨拶をいただきました。

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「Sabbe sattaa bhavantu sukhitattaa 生きとし生けるものが幸せでありますように」マーヤーデーヴィー精舎の壁面に描かれた、ブッダのことば(スッタニパータ:慈経より)。

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マーヤーデーヴィー精舎の玄関。

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勝手口側からの外観。

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15分ほどの休みを挟んで、比丘サンガにより祝福法要が執り行われ、岡田副会長の閉会の辞をもって、本日のスケジュールはすべて終了しました。最後に比丘サンガより聖糸と記念品が授与され、みな晴れやかな顔でマーヤーデーヴィー精舎をあとにされていました。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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北伝仏教の釈尊降誕会(花祭)にちなんだ毎年恒例のゴータミー精舎花まつり。今年も会員・本間恵志子さん作の花御堂に誕生仏を安置して、甘茶供養を行いました。参詣者の方々には甘茶クッキー(杜多千秋さんお布施)と甘茶を差し上げました。ゴータミー精舎まえの桜並木から吹き込む花吹雪にも荘厳され、ささやかながら美しい法会となりました。ご協力くださった皆様に随喜し感謝いたします。

ちなみにテーラワーダ仏教の花祭(+成道会&涅槃会)にあたるウェーサーカ祭は、5月の満月前後に全世界でお祝いされます。日本テーラワーダ仏教協会では、ちょっと遅れて5月24日(日)に盛大にお祝いします。皆さまもぜひご参加ください。詳しくは以下のリンク先をご覧ください。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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12月23日の天皇誕生日、代々木公園の国立オリンピック記念青少年総合センターにて、2008年最後となるスマナサーラ長老の初期仏教月例講演会『身も心もスッキリ軽くなる、「捨て方」の極意-賢者は正しく「始末」をつける』が開催されました。

18:30の開始時間には、会場に200名以上もの善男善女がつめかけ、大盛況のうちに講演会を終えることが出来ました。たいへん凝縮された、まさに今年の総決算という印象の講演でした。サードゥ! 年明けて2009年最初の月例講演会は、1月 24日 (土)18:30 ~ 21:00から開催。会場は同じく国立オリンピック記念青少年総合センターです。>>>>タイトルなど詳しくはこちら!

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
2008年12月20日は、ゴータミー精舎の大掃除の日。朝早くからたくさんの方がご参集してくださり、精舎の隅々まで掃除してくださいました。1500からは今年最後となるスマナサーラ長老のダンマパダ(法句経)講義がありました。以下、その場でとった講義メモを整理した文章を掲載いたします。語彙や言い回しなどかなり記者のものに変わっていますし、細部で間違いもあるかと存じます。参考程度にお読みください。


ダンマパダ(法句経)講義 賢者の章85,86偈
講師 アルボムッレ・スマナサーラ長老

85 appakaa te manussesu ye janaa paaragaamino,
人々のなかで彼岸へ到達する人々は少ない。
athaayaM itaraa pajaa tiiram evaanudhaavati.
また他の人々は(こちらの)岸を走り回っている。
86 ye ca kho sammadakkhaate dhamme dhammaanuvattino,
また実に正しく説かれた法において法に従順なる人々は(正しく説かれている真理に従って実践する人々ならば)、
te janaa paaram essanti, maccudheyyaM suduttaraM.
そのような人々は越え難き死王の領域(王国)を(越えて)彼岸に至るであろう。

■この偈のポイント

表面的には難しい意味ではありません。
お釈迦さまの目から見ても、解脱に成功する人々の方がすくない。この世界で仏教徒も少ない、仏教徒はいても、解脱する人は少ない。他の人は頑張っているけど、グルグル回っているだけ。
tiiram evaanudhaavati.(川を超えられずに)岸で走り回っている。
sammadakkhaate dhamme正しく説かれた法(真理)において ←ココポイント!

正しく説かれた、というのは、宣伝文句ではない。どの角度から見ても完全に説かれているということです。それは人間に不可能なこと。文学作家は言語の達人です。言語を見事に演奏します。それは皆にある能力でもないが、学べば身に付く可能性がある。それで例えば詩人が何かのテーマを歌うとします。しかし、「これ以上立派なもの誰にも作れない」ということはあり得ないのです。上手な作家でも、あるテーマを完璧に書くということはできません。人類のなかで、完璧に語られたのはお釈迦様だけだと思います。ブッダの言葉は、誰もケチが付けられないのです。しかし、釈尊は(文学者のように)言語についてそれほど真剣に考えていません。おおざっぱに言葉を使いつつ、見事に説くのです。

■「正しく説かれた」教えはそのまま実践

正しく説かれた、とは何なのでしょうか。釈尊は悟りに達する方法を説いています。それを完璧に説いているのです。その教えは誰にも訂正できない。ぴったりそのまま実践しないといけないのです。

釈尊の教えを、自分で「改良」して自分のシステムつくっても結果は出ない。
しかし、みんな、それをやってしまっているのです。

釈尊の説いた修行方法を自分で改良すること、いろんな方法を自分で導入して「あの方法とは違いますよ」と誇示するようなことは絶対やってはいけない。なぜ人々が悟れないのかというと、そこにポイントがあるのです。みな仏法僧に帰依しながら、釈尊が絶対やってはいけないと言ったことをしているのです。修行は、微妙にでも間違ったら、もう「さようなら」なのです。

■仏教はエサをまいて人集めをしない

修行は表面的には簡単ですが、表面的に簡単であることが、見事に説かれているという所以です。実践が不可能だとは誰にも思わせない。なのに修行をしている過程で、「他の方法はないのか?」などと探したりする。どこかでお釈迦様の方法を改良(といいながら改悪)しているところがあったなら、そっちに飛びつく。ブッダの教えを改悪する人は、俗人を引き付ける目的でやっているのです。俗人のためのエサだから、ロクなものではない。それでみんな、間違ってしまう。仏道ではエサをまきません。人気、人寄せのため、人へのアピールのためには、何もしません。

一般人にアピールするために何かすることは、やってはいけないのです。
仏道は「正しく説かれている(sammadakkhaata)」。これはとても大変な単語です。
仏法僧の「法」に帰依する時も、いつでも最初に来る言葉はsvaakkhaato(善説)なのです。
svaakkhaata、sammadakkhaata、という言葉が意味するのは、言語的な(文学)能力ではなく、正しい完璧な方法論を説いているということです。

悟るためのやり方というのは、どんなやり方でもいいわけではないのです。達すべき目的、答えがあるならば、何をやってもいい、ということは成り立ちません。正しいやり方があるのです。 俗世間でも、どんなものでも「やり方」が成り立っているのです。そのやり方でやれば決まった結果が出てきます。やり方を少々変えたら、当然、結果が違ってきます。

■何にでも正しい方法がある

例:お粥を作るにも正しいやり方がある。お米の量と水の量がある。水が減ると普通のご飯になる。先に米を空煎りしてから作ると別の食べ物になる。アーユルヴェーダではお粥も治療方法だから、調理の仕方によってそれぞれ効能が違うのです。だから、正しい結果を得たければ、言う通りにしないといけません。お粥であっても作り方があります。そこは変えてはいけない。悟りに達する方法について、釈尊は微妙にも変えることはできない方法を説いたのです。

このポイントがなぜ重大かと言うと、こころはすごく管理しがたい大変なものだからです。
瞑想したからといって、うまくいくとは......限りません。
こころは分かりにくい働きをします。それを仏教で説明していますが、つまり、こころは幻覚を作り出すのです。こころが自分で結果を考えて、その「考えた結果」を自分で作り出します。考えた結果は「幻覚」なのです。いつでも結果に達している「つもり」になってしまう。お化粧するのと同じです。こころが「美人でいたい」と決めてしまう。それでこころに何か塗って、美人になったつもりになる。我々はそういう「つもり」の世界にいるのです。服を着る時も、かっこよくなった気分でいる。こころはそれで満足しているのです。客観的な結果は気にしません。

■「つもり」の世界では満たされない

こころはそうやって、何か希望を作るのです。希望に達した気分になって、吾輩は良かったと満足する。でもそれは幻覚、「つもり」だから、エネルギーはない。次、また何かやらないといけなくなる。たとえば最高な御馳走を食べたつもりでお茶づけを食べる。ご馳走を食べた気分になっても、実際に御馳走を食べたわけではないのです。「食べた気分」が生まれただけ。実際に御馳走を食べて得られるエネルギーはそこにはない。だからすぐ次のことをしないといけないのです。でもまた「つもり」で喜んでしまう。我々はそうやって、「つもり」の世界で生きているのです。幸福になったつもり、成功したつもり、最終的には、「悟ったつもり」にもなります。

ですから、全智者であるブッダが、悟ったブッダが説かれる方法には微妙にでも触れてはならないのです。そのまま実践するしかないのです。仏道を微塵も変えるなよ、触るなよ、そのままの形でやりなさいと言うことなんです。sammadakkhaataというのは、大変な単語です。わずかな変化もダメなんです。線路で例えれば、軌道にミリ単位の微妙なずれがあっても、先に進めば進むほど方向は大きくずれてしまう。行きたかったところに到着できない。仏道を微妙に変えたら、自分のこころで、「つもり」のこころで変えたことなのだから。

つもりのこころで生きてきた人にとっては、つもりのこころで作ったものが分かりやすいんです。だから人気が出ます。日本で昔、浄土教がサーっと広まったのも、「つもり」のこころには分りやすかったからです。念仏を唱えれば、死後は極楽浄土に行けるという教えですから。神を信仰する宗教が人気出るのも当たり前。西洋の一神教は、「つもり」の世界の代表です。そういう智慧のない、論理性のない人々の考えを見るとよくわかります。一般の人はそれなら分かりやすい。論理的な正しい方法はやりたがらないのですが、「水をかぶれば罪が消える」と聞いたら、飛んでいってやりたがる。こころを持っている生命には、人間に限らずそういう問題があるのです。

自分で期待をして、自分で幻覚をつくって、なった「つもり」になる。でも何か困るのです。そこで新しい希望を作って、挑戦してなったつもりになって、またちょっとちがうから、次の希望をつくって......無限に続くんです。「つもり」の輪から、脱出できないのです。

■行ったことのない場所のガイドブックを書く


真理は、「花より団子」なんです。
花より団子を取る人こそが賢いのです。
こころは間違えて、花より団子は間違い、という生き方をしているのです。

そういう、ややかしいところがあるから、お釈迦様はsvaakkhaata、sammadakkhaataという言葉を使っています。人にそれを改良する資格はまったくない。悟りに達していないんだから。歩んだことのない世界のガイドブックを作るものじゃないのです。ガイドブックを作る資格があるのはそこを歩んだ人なのです。
しかし人々は、自分が歩んだことのない、経験したことのない世界について、自分でガイドブックを書いてしまう。書いて、それからやってみる。すると、「つもり」になるんです。子供はよく「つもり」遊びをやっています。フィギアを持ってきて、いろんな怪獣の話やら、いろんなキャラクターを持ち出して。あれは子供たちの「つもり」あそびです。つもり病は子供のこころを見るとちゃんと見えます。

人間にある、「つもり」病にかかると、悟れません。だから解脱に達する人は少ない。
「死は乗り越えがたい」のです。

■「自分の意見」で経典を解釈する危険

注釈書では、岸でうろうろする、という言葉を 「有身見のこと」だと説明しています。経典の注釈書でも、仏道はみじんも改良不可能なものである、ということは言っていない。そのポイントは見逃してしまうのです。
注釈書を書いた上座仏教の長老たちは、ブッダの言葉は金言で絶対的な言葉で変えることはできないと、基本的に決まっています。最終決断はブッダの言葉を調べて、何か言葉があったらそれで結論。しかしブッダの言葉を解説するために異論が成り立つとどうにもならなくなる。問題が起こるのはブッダの言葉を解説しようとするときです。それで、自分の意見で経典を解説することになる。やがては、自分の意見をブッダの意見にするんです。

■輪廻転生もわかった「つもり」

先日、あるイギリス人が、中国系のお坊さんが書いたテーラワーダ系の本を持ってきて、輪廻について質問してきました。私はまず、「『自分には理解できない、私には分かりません、だから真理ではありません』ということは成り立たない。それだけ覚えておきなさい。それはヨーロッパ人がよくやることです」と釘を刺しました。彼もそれを理解した。彼が持ってきた本を読むと、「輪廻は心理の変化のことだ。人はその都度、地獄に落ちたような苦しんだり、ほんの時々は天界にいるように落ち着いたりして、人格が変わるでしょう。それが輪廻のことですよ」と、みごとに輪廻転生の教えをカットしている。それで、その本を読んだ人は、「生命はこの命に限られる」という証拠も何もない結論に達してしまうのです。つまり、ブッダが超越的な智慧で発見した輪廻を、単に自分の知っている世界で説明しようとするのです。それで輪廻を、知っている「つもり」、わかった「つもり」になる。釈尊の説かれる輪廻は、過去生を目の前で経験するような能力ある人だけに実証される概念です。過去(過去生)を見る。過去を見て、過去があるなら将来があるのも当たり前だと推測するんです。仏教で問題にするのは、なぜそうなったのか?という原因です。その原因を取り除いたのかと。取り除かないで、ただ生きてきただけだから、それで、また生まれてしまった。仏教の修行というのは、また生まれる原因を取り除くことです。それを自分の理屈で理解しようとすると、「つもり」の世界になる。なるほど、よく理解できたと、わかった「つもり」になるのです。

■真理を語る人、真理を守る人

本を書く人の間違いは、「輪廻とはそのようなものである」と書いてしまうことです。「私は自分のわがままでこのように解説するのです」ということならば、結論が間違っていても問題は少ない。釈尊は「真理を語る」「真理を守る」という二つのことを言っています。「私はこう解説する」というならば、真理を守っています。私が文章を書く場合、「○○です」と「○○と思います」は微妙に区別します。「○○でしょう」と使う場合もあります。いくらす早く読み合わせをしても、動詞には気をつけるんです。
この偈ふたつのポイントはsammadakkhaata、「つもり」世界へのブッダの注意です。仏教以外何も知らないような人であっても、気をつけないといけない。訂正する「つもり」になるのです、道を。

■仏道はただひとつの道

(質疑応答から補足:経典はたくさんあっても、仏道はひとつしかないのです。マニュアルだから、ひとつしかない。 機械のユーザーマニュアルがたくさんあるわけではない。たとえば、Windows Vista の使い方を解説した本はたくさんあります。しかし、『90分で分かるVista』であっても、分厚い『Vistaバイブル』であっても、結局同じことで す。きめ細かく専門的ないらないところまで書いているか、いつも使うところに絞った説明かというだけのこと。結局、Windows Vistaの使い方は決まっているのです。電子レンジのマニュアルが、マンガで書いてあっても、文章でも、英語で書いてあっても、結局使い方は同じです。 お釈迦様の説かれた経典(パーリ経典)も当然たくさんあります。経典ではいろんな論点を分析して説明しますが、仏道(修行)についてはワンパターンで終わ り。決まった同じパターンがあります。微妙にも言葉も変えません。
......
たくさんの経典から好みの経典を選ぶのは構いませんが、「仏道がた くさんある」ということは成り立たないのです。解脱・悟りというこころの転換を起こす方法は、たくさんありえるはずがない。「つもり」世界だったら、それ はいくらでもあり得ます。お釈迦さまは、医者に例えて説明するのです。「病気なら病気になった原因があります。それを無くす方法はひとつしかない。薬なら 何でもいいわけではないのだ」と。テーラワーダ世界でたくさん瞑想法がありますが、それは入り口の、アクセスの差だけです。初心者に瞑想を教えようとする 場合は、不浄瞑想でも、呼吸瞑想でも、入門編として、知られている方法を取り上げるだけ。ヴィパッサナーに入ったら、道は一つです。東京で新幹線に乗ろう としたら、品川か東京まで行かないといけない。そこまでは近道であろうが、遠回りであろうが、どのルートを使ってもいい。勝手にしろよと。しかし、東京駅 からは新幹線一本になります。)

■解脱にいたる「善のストレス」

輪廻を脱出するというのは大変なことです。
木曜日の朝日カルチャー教室で、悟りに達するために必要なエネルギーについて、初めて紹介しました。輪廻を脱出するためには、かなりエネルギーが必要なのです。いろいろ工夫して悟りに達するエネルギーを貯めないといけないのです。生きているとどうしてもストレスはたまります。悪ストレスをやめても、善ストレスもありますよ。どうしても、エネルギーは必要なのです。悪ストレスはあまり貯まらずにすぐ自己破壊します。でも善のストレスを貯めるのはたいへんです。貯めて貯めて、善のストレスを爆発して悟るのです。高跳びと同じで、みじんにでも思考が入ると飛べない。一点にすべてを集中するのです。飛ぶ瞬間、人には記憶がありません。何が起きたか分からないのです。

maccudheyyaM suduttaraM 死王の領域はそう簡単に飛べない。エネルギーが必要だということになるのです。

DSC_5627.JPG(質 疑応答から補足:善のストレスを貯めるためには覚悟しないといけない、たいへんだと。でもやるんだよと。それも法則で、嫌なものだからやるのは嫌、という のはとんでもないことです。何かやり遂げたければ乗り越えなくては。道は険しいということを覚悟しないと。その覚悟もなしに、登山してみようとしたって、 何にもならないのです。つかれた、寒い、やめたーっ、もどりましょうと。それって人生でしょうか? 寒いこと、雪が降っていること、うっかり滑落したら死 ぬことも覚悟のうえで、登山家は頂上を目指すのです。頂上まで行ったら、ストレスが解消されてすごくリラックスできる。そこまではストレスです。善のスト レス、つまり悪を止めて善に生きることも、頑張らないと淡々とは進まないのです。悪いことだけにストレスというのは現代語の間違い。ストレスの原意はエネ ルギーが溜まるということです。生きている限りストレスは貯まります。しかし、悪(貪瞋痴)のストレスではゴミが貯まるだけ。善(不貪不瞋不痴)のストレ スでは宝物が貯まるのです。それでも重いことは重い。悪を歩むと臭いゴミが溜まります。それで捨てたくなる。目的地に着いて袋を開けてもゴミばかり。善の 道を歩んでも重いものが溜まる。でも捨ててはいけない。重い、苦しい、と思っても、最終目的について袋を開けたら宝物なのです。善のストレスは自己破壊に はならない。しかし、あーつかれた、止めたくなったという気持ちは当然出てくるんです。善い道は目的に達するまで、ストレス覚悟でやらないといけない。善 のストレスと悪のストレスの違うところは、善のストレスは、身体にも、こころにも悪影響まったくないことです。善のストレスとは、こころが成長したいスト レスなんです。物を破壊する時も疲れるし、作る時も疲れます。でも、(貪瞋痴で)ものを壊して疲れても意味がないのです。何か素晴らしいものを作るために (不貪不瞋不痴で)頑張って、それで疲れたとしても、立派な作品が完成しているのです。云々。)

メモと文責:佐藤哲朗

CIMG0198.JPG2008年12月8日、立正佼成会大和協会(神奈川県大和市)の「成道会」(北伝仏教で釈尊の成道を記念する法会)にスマナサーラ長老が招かれ、「無常の見方」について約1時間半の講演をされました。立正佼成会の会員の皆様を中心に、200名以上の方々が参集され、ユーモアたっぷりの講演に会場がドッと沸く場面もしばしばでした。

無常の見方 「聖なる真理」と「私」の幸福    お釈迦さまが教えたこと1 原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話 原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

2008 11 18 003.jpg18日13:00-15:00横浜朝日カルチャー公開講座「お釈迦様の教え ブッダから、現代人へのアドバイス」が開講されました。次回の横浜朝日カルチャー出講は2009年3月10日(火)となります。詳しくは朝日カルチャーセンター横浜教室まで。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

CIMG0113.jpg17日午前、スマナサーラ長老が対談ゲストとして出演される、文化放送(AMラジオ)「世相ホットライン ハイ!竹村健一です」の収録がありました。放送日は未定です。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

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