2008年12月アーカイブ

平成21年(西暦2009年)、新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

新しい年を祝い、お正月に世界の平和と安寧を祈念するPC壁紙を配信します。
日本テーラワーダ仏教協会機関誌『パティパダー』2009年1月号の表紙イラスト(上杉久代)をもとにしたデザインです。デスクトップのサイズに合わせて各種取り揃えております。どうぞご活用下さい。

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皆さまにとって今年がよい一年でありますように。


~生きとし生けるものが幸せでありますように~

大阪府岸和田市のテーラワーダ寺院、アラナ精舎のブログ「アラナ精舎日記」が開設されました。

アラナ精舎御本尊 釈迦牟尼如来坐像日本テーラワーダ仏教協会の二番目の精舎です。
大阪府岸和田市流木町226-3 
電話 072-427-6614

JR東岸和田駅(関空快速で乗り換えなし)からバスで約7分、徒歩で約20分、ヴィパッサナー冥想会(宿泊も出来ます)アビダンマ勉強会、パーリ語勉強会など色々な活動を行っています。ぜひ一度ご参加ください。

東岸和田駅バス停より天神三丁目行き流木バス停下車

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
 


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12月23日の天皇誕生日、代々木公園の国立オリンピック記念青少年総合センターにて、2008年最後となるスマナサーラ長老の初期仏教月例講演会『身も心もスッキリ軽くなる、「捨て方」の極意-賢者は正しく「始末」をつける』が開催されました。

18:30の開始時間には、会場に200名以上もの善男善女がつめかけ、大盛況のうちに講演会を終えることが出来ました。たいへん凝縮された、まさに今年の総決算という印象の講演でした。サードゥ! 年明けて2009年最初の月例講演会は、1月 24日 (土)18:30 ~ 21:00から開催。会場は同じく国立オリンピック記念青少年総合センターです。>>>>タイトルなど詳しくはこちら!

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
2008年12月20日は、ゴータミー精舎の大掃除の日。朝早くからたくさんの方がご参集してくださり、精舎の隅々まで掃除してくださいました。1500からは今年最後となるスマナサーラ長老のダンマパダ(法句経)講義がありました。以下、その場でとった講義メモを整理した文章を掲載いたします。語彙や言い回しなどかなり記者のものに変わっていますし、細部で間違いもあるかと存じます。参考程度にお読みください。


ダンマパダ(法句経)講義 賢者の章85,86偈
講師 アルボムッレ・スマナサーラ長老

85 appakaa te manussesu ye janaa paaragaamino,
人々のなかで彼岸へ到達する人々は少ない。
athaayaM itaraa pajaa tiiram evaanudhaavati.
また他の人々は(こちらの)岸を走り回っている。
86 ye ca kho sammadakkhaate dhamme dhammaanuvattino,
また実に正しく説かれた法において法に従順なる人々は(正しく説かれている真理に従って実践する人々ならば)、
te janaa paaram essanti, maccudheyyaM suduttaraM.
そのような人々は越え難き死王の領域(王国)を(越えて)彼岸に至るであろう。

■この偈のポイント

表面的には難しい意味ではありません。
お釈迦さまの目から見ても、解脱に成功する人々の方がすくない。この世界で仏教徒も少ない、仏教徒はいても、解脱する人は少ない。他の人は頑張っているけど、グルグル回っているだけ。
tiiram evaanudhaavati.(川を超えられずに)岸で走り回っている。
sammadakkhaate dhamme正しく説かれた法(真理)において ←ココポイント!

正しく説かれた、というのは、宣伝文句ではない。どの角度から見ても完全に説かれているということです。それは人間に不可能なこと。文学作家は言語の達人です。言語を見事に演奏します。それは皆にある能力でもないが、学べば身に付く可能性がある。それで例えば詩人が何かのテーマを歌うとします。しかし、「これ以上立派なもの誰にも作れない」ということはあり得ないのです。上手な作家でも、あるテーマを完璧に書くということはできません。人類のなかで、完璧に語られたのはお釈迦様だけだと思います。ブッダの言葉は、誰もケチが付けられないのです。しかし、釈尊は(文学者のように)言語についてそれほど真剣に考えていません。おおざっぱに言葉を使いつつ、見事に説くのです。

■「正しく説かれた」教えはそのまま実践

正しく説かれた、とは何なのでしょうか。釈尊は悟りに達する方法を説いています。それを完璧に説いているのです。その教えは誰にも訂正できない。ぴったりそのまま実践しないといけないのです。

釈尊の教えを、自分で「改良」して自分のシステムつくっても結果は出ない。
しかし、みんな、それをやってしまっているのです。

釈尊の説いた修行方法を自分で改良すること、いろんな方法を自分で導入して「あの方法とは違いますよ」と誇示するようなことは絶対やってはいけない。なぜ人々が悟れないのかというと、そこにポイントがあるのです。みな仏法僧に帰依しながら、釈尊が絶対やってはいけないと言ったことをしているのです。修行は、微妙にでも間違ったら、もう「さようなら」なのです。

■仏教はエサをまいて人集めをしない

修行は表面的には簡単ですが、表面的に簡単であることが、見事に説かれているという所以です。実践が不可能だとは誰にも思わせない。なのに修行をしている過程で、「他の方法はないのか?」などと探したりする。どこかでお釈迦様の方法を改良(といいながら改悪)しているところがあったなら、そっちに飛びつく。ブッダの教えを改悪する人は、俗人を引き付ける目的でやっているのです。俗人のためのエサだから、ロクなものではない。それでみんな、間違ってしまう。仏道ではエサをまきません。人気、人寄せのため、人へのアピールのためには、何もしません。

一般人にアピールするために何かすることは、やってはいけないのです。
仏道は「正しく説かれている(sammadakkhaata)」。これはとても大変な単語です。
仏法僧の「法」に帰依する時も、いつでも最初に来る言葉はsvaakkhaato(善説)なのです。
svaakkhaata、sammadakkhaata、という言葉が意味するのは、言語的な(文学)能力ではなく、正しい完璧な方法論を説いているということです。

悟るためのやり方というのは、どんなやり方でもいいわけではないのです。達すべき目的、答えがあるならば、何をやってもいい、ということは成り立ちません。正しいやり方があるのです。 俗世間でも、どんなものでも「やり方」が成り立っているのです。そのやり方でやれば決まった結果が出てきます。やり方を少々変えたら、当然、結果が違ってきます。

■何にでも正しい方法がある

例:お粥を作るにも正しいやり方がある。お米の量と水の量がある。水が減ると普通のご飯になる。先に米を空煎りしてから作ると別の食べ物になる。アーユルヴェーダではお粥も治療方法だから、調理の仕方によってそれぞれ効能が違うのです。だから、正しい結果を得たければ、言う通りにしないといけません。お粥であっても作り方があります。そこは変えてはいけない。悟りに達する方法について、釈尊は微妙にも変えることはできない方法を説いたのです。

このポイントがなぜ重大かと言うと、こころはすごく管理しがたい大変なものだからです。
瞑想したからといって、うまくいくとは......限りません。
こころは分かりにくい働きをします。それを仏教で説明していますが、つまり、こころは幻覚を作り出すのです。こころが自分で結果を考えて、その「考えた結果」を自分で作り出します。考えた結果は「幻覚」なのです。いつでも結果に達している「つもり」になってしまう。お化粧するのと同じです。こころが「美人でいたい」と決めてしまう。それでこころに何か塗って、美人になったつもりになる。我々はそういう「つもり」の世界にいるのです。服を着る時も、かっこよくなった気分でいる。こころはそれで満足しているのです。客観的な結果は気にしません。

■「つもり」の世界では満たされない

こころはそうやって、何か希望を作るのです。希望に達した気分になって、吾輩は良かったと満足する。でもそれは幻覚、「つもり」だから、エネルギーはない。次、また何かやらないといけなくなる。たとえば最高な御馳走を食べたつもりでお茶づけを食べる。ご馳走を食べた気分になっても、実際に御馳走を食べたわけではないのです。「食べた気分」が生まれただけ。実際に御馳走を食べて得られるエネルギーはそこにはない。だからすぐ次のことをしないといけないのです。でもまた「つもり」で喜んでしまう。我々はそうやって、「つもり」の世界で生きているのです。幸福になったつもり、成功したつもり、最終的には、「悟ったつもり」にもなります。

ですから、全智者であるブッダが、悟ったブッダが説かれる方法には微妙にでも触れてはならないのです。そのまま実践するしかないのです。仏道を微塵も変えるなよ、触るなよ、そのままの形でやりなさいと言うことなんです。sammadakkhaataというのは、大変な単語です。わずかな変化もダメなんです。線路で例えれば、軌道にミリ単位の微妙なずれがあっても、先に進めば進むほど方向は大きくずれてしまう。行きたかったところに到着できない。仏道を微妙に変えたら、自分のこころで、「つもり」のこころで変えたことなのだから。

つもりのこころで生きてきた人にとっては、つもりのこころで作ったものが分かりやすいんです。だから人気が出ます。日本で昔、浄土教がサーっと広まったのも、「つもり」のこころには分りやすかったからです。念仏を唱えれば、死後は極楽浄土に行けるという教えですから。神を信仰する宗教が人気出るのも当たり前。西洋の一神教は、「つもり」の世界の代表です。そういう智慧のない、論理性のない人々の考えを見るとよくわかります。一般の人はそれなら分かりやすい。論理的な正しい方法はやりたがらないのですが、「水をかぶれば罪が消える」と聞いたら、飛んでいってやりたがる。こころを持っている生命には、人間に限らずそういう問題があるのです。

自分で期待をして、自分で幻覚をつくって、なった「つもり」になる。でも何か困るのです。そこで新しい希望を作って、挑戦してなったつもりになって、またちょっとちがうから、次の希望をつくって......無限に続くんです。「つもり」の輪から、脱出できないのです。

■行ったことのない場所のガイドブックを書く


真理は、「花より団子」なんです。
花より団子を取る人こそが賢いのです。
こころは間違えて、花より団子は間違い、という生き方をしているのです。

そういう、ややかしいところがあるから、お釈迦様はsvaakkhaata、sammadakkhaataという言葉を使っています。人にそれを改良する資格はまったくない。悟りに達していないんだから。歩んだことのない世界のガイドブックを作るものじゃないのです。ガイドブックを作る資格があるのはそこを歩んだ人なのです。
しかし人々は、自分が歩んだことのない、経験したことのない世界について、自分でガイドブックを書いてしまう。書いて、それからやってみる。すると、「つもり」になるんです。子供はよく「つもり」遊びをやっています。フィギアを持ってきて、いろんな怪獣の話やら、いろんなキャラクターを持ち出して。あれは子供たちの「つもり」あそびです。つもり病は子供のこころを見るとちゃんと見えます。

人間にある、「つもり」病にかかると、悟れません。だから解脱に達する人は少ない。
「死は乗り越えがたい」のです。

■「自分の意見」で経典を解釈する危険

注釈書では、岸でうろうろする、という言葉を 「有身見のこと」だと説明しています。経典の注釈書でも、仏道はみじんも改良不可能なものである、ということは言っていない。そのポイントは見逃してしまうのです。
注釈書を書いた上座仏教の長老たちは、ブッダの言葉は金言で絶対的な言葉で変えることはできないと、基本的に決まっています。最終決断はブッダの言葉を調べて、何か言葉があったらそれで結論。しかしブッダの言葉を解説するために異論が成り立つとどうにもならなくなる。問題が起こるのはブッダの言葉を解説しようとするときです。それで、自分の意見で経典を解説することになる。やがては、自分の意見をブッダの意見にするんです。

■輪廻転生もわかった「つもり」

先日、あるイギリス人が、中国系のお坊さんが書いたテーラワーダ系の本を持ってきて、輪廻について質問してきました。私はまず、「『自分には理解できない、私には分かりません、だから真理ではありません』ということは成り立たない。それだけ覚えておきなさい。それはヨーロッパ人がよくやることです」と釘を刺しました。彼もそれを理解した。彼が持ってきた本を読むと、「輪廻は心理の変化のことだ。人はその都度、地獄に落ちたような苦しんだり、ほんの時々は天界にいるように落ち着いたりして、人格が変わるでしょう。それが輪廻のことですよ」と、みごとに輪廻転生の教えをカットしている。それで、その本を読んだ人は、「生命はこの命に限られる」という証拠も何もない結論に達してしまうのです。つまり、ブッダが超越的な智慧で発見した輪廻を、単に自分の知っている世界で説明しようとするのです。それで輪廻を、知っている「つもり」、わかった「つもり」になる。釈尊の説かれる輪廻は、過去生を目の前で経験するような能力ある人だけに実証される概念です。過去(過去生)を見る。過去を見て、過去があるなら将来があるのも当たり前だと推測するんです。仏教で問題にするのは、なぜそうなったのか?という原因です。その原因を取り除いたのかと。取り除かないで、ただ生きてきただけだから、それで、また生まれてしまった。仏教の修行というのは、また生まれる原因を取り除くことです。それを自分の理屈で理解しようとすると、「つもり」の世界になる。なるほど、よく理解できたと、わかった「つもり」になるのです。

■真理を語る人、真理を守る人

本を書く人の間違いは、「輪廻とはそのようなものである」と書いてしまうことです。「私は自分のわがままでこのように解説するのです」ということならば、結論が間違っていても問題は少ない。釈尊は「真理を語る」「真理を守る」という二つのことを言っています。「私はこう解説する」というならば、真理を守っています。私が文章を書く場合、「○○です」と「○○と思います」は微妙に区別します。「○○でしょう」と使う場合もあります。いくらす早く読み合わせをしても、動詞には気をつけるんです。
この偈ふたつのポイントはsammadakkhaata、「つもり」世界へのブッダの注意です。仏教以外何も知らないような人であっても、気をつけないといけない。訂正する「つもり」になるのです、道を。

■仏道はただひとつの道

(質疑応答から補足:経典はたくさんあっても、仏道はひとつしかないのです。マニュアルだから、ひとつしかない。 機械のユーザーマニュアルがたくさんあるわけではない。たとえば、Windows Vista の使い方を解説した本はたくさんあります。しかし、『90分で分かるVista』であっても、分厚い『Vistaバイブル』であっても、結局同じことで す。きめ細かく専門的ないらないところまで書いているか、いつも使うところに絞った説明かというだけのこと。結局、Windows Vistaの使い方は決まっているのです。電子レンジのマニュアルが、マンガで書いてあっても、文章でも、英語で書いてあっても、結局使い方は同じです。 お釈迦様の説かれた経典(パーリ経典)も当然たくさんあります。経典ではいろんな論点を分析して説明しますが、仏道(修行)についてはワンパターンで終わ り。決まった同じパターンがあります。微妙にも言葉も変えません。
......
たくさんの経典から好みの経典を選ぶのは構いませんが、「仏道がた くさんある」ということは成り立たないのです。解脱・悟りというこころの転換を起こす方法は、たくさんありえるはずがない。「つもり」世界だったら、それ はいくらでもあり得ます。お釈迦さまは、医者に例えて説明するのです。「病気なら病気になった原因があります。それを無くす方法はひとつしかない。薬なら 何でもいいわけではないのだ」と。テーラワーダ世界でたくさん瞑想法がありますが、それは入り口の、アクセスの差だけです。初心者に瞑想を教えようとする 場合は、不浄瞑想でも、呼吸瞑想でも、入門編として、知られている方法を取り上げるだけ。ヴィパッサナーに入ったら、道は一つです。東京で新幹線に乗ろう としたら、品川か東京まで行かないといけない。そこまでは近道であろうが、遠回りであろうが、どのルートを使ってもいい。勝手にしろよと。しかし、東京駅 からは新幹線一本になります。)

■解脱にいたる「善のストレス」

輪廻を脱出するというのは大変なことです。
木曜日の朝日カルチャー教室で、悟りに達するために必要なエネルギーについて、初めて紹介しました。輪廻を脱出するためには、かなりエネルギーが必要なのです。いろいろ工夫して悟りに達するエネルギーを貯めないといけないのです。生きているとどうしてもストレスはたまります。悪ストレスをやめても、善ストレスもありますよ。どうしても、エネルギーは必要なのです。悪ストレスはあまり貯まらずにすぐ自己破壊します。でも善のストレスを貯めるのはたいへんです。貯めて貯めて、善のストレスを爆発して悟るのです。高跳びと同じで、みじんにでも思考が入ると飛べない。一点にすべてを集中するのです。飛ぶ瞬間、人には記憶がありません。何が起きたか分からないのです。

maccudheyyaM suduttaraM 死王の領域はそう簡単に飛べない。エネルギーが必要だということになるのです。

DSC_5627.JPG(質 疑応答から補足:善のストレスを貯めるためには覚悟しないといけない、たいへんだと。でもやるんだよと。それも法則で、嫌なものだからやるのは嫌、という のはとんでもないことです。何かやり遂げたければ乗り越えなくては。道は険しいということを覚悟しないと。その覚悟もなしに、登山してみようとしたって、 何にもならないのです。つかれた、寒い、やめたーっ、もどりましょうと。それって人生でしょうか? 寒いこと、雪が降っていること、うっかり滑落したら死 ぬことも覚悟のうえで、登山家は頂上を目指すのです。頂上まで行ったら、ストレスが解消されてすごくリラックスできる。そこまではストレスです。善のスト レス、つまり悪を止めて善に生きることも、頑張らないと淡々とは進まないのです。悪いことだけにストレスというのは現代語の間違い。ストレスの原意はエネ ルギーが溜まるということです。生きている限りストレスは貯まります。しかし、悪(貪瞋痴)のストレスではゴミが貯まるだけ。善(不貪不瞋不痴)のストレ スでは宝物が貯まるのです。それでも重いことは重い。悪を歩むと臭いゴミが溜まります。それで捨てたくなる。目的地に着いて袋を開けてもゴミばかり。善の 道を歩んでも重いものが溜まる。でも捨ててはいけない。重い、苦しい、と思っても、最終目的について袋を開けたら宝物なのです。善のストレスは自己破壊に はならない。しかし、あーつかれた、止めたくなったという気持ちは当然出てくるんです。善い道は目的に達するまで、ストレス覚悟でやらないといけない。善 のストレスと悪のストレスの違うところは、善のストレスは、身体にも、こころにも悪影響まったくないことです。善のストレスとは、こころが成長したいスト レスなんです。物を破壊する時も疲れるし、作る時も疲れます。でも、(貪瞋痴で)ものを壊して疲れても意味がないのです。何か素晴らしいものを作るために (不貪不瞋不痴で)頑張って、それで疲れたとしても、立派な作品が完成しているのです。云々。)

メモと文責:佐藤哲朗

200901hyoshi.jpg12月19日午後、ゴータミー精舎にて日本テーラワーダ仏教協会の機関誌『パティパダー』B.E.2552/2009年1月号(vol.15 no.9)の発送作業を行いました。数日で、会員はじめ読者の皆様のお手元に届くかと存じます。 今月もボランティアの皆様の手で無事に発送作業を終えられました。

1月号の表紙イラストは上杉久代さんです。

主要目次は、 こちらのPDFファイル をご覧ください。

☆『パティパダー(paTipadaa)』は日本テーラワーダ仏教協会の会員向け月刊誌です。

<入会(購読)方法>
初年度会費として、7千円(次年度から年間5千円)を下記の郵便口座までお振込みください。通信欄には「 入会希望」と記入してください。毎月、機関誌『パティパダー(paTipadaa)』をお送りいたします。※パティパダー購読のみ希望の場合も条件は同じです。ご不明の点は協会事務局まで、お電話(03-5738-5526)か電子メール(gotami◆m05.itscom ※◆を@に変えてください)でお問合せください。
 

【郵便振替口座】
00120-5-763914 日本テーラワーダ仏教協会
※協会への入退会は自由です。

生きとし生けるものが幸せでありますように

CIMG0198.JPG2008年12月8日、立正佼成会大和協会(神奈川県大和市)の「成道会」(北伝仏教で釈尊の成道を記念する法会)にスマナサーラ長老が招かれ、「無常の見方」について約1時間半の講演をされました。立正佼成会の会員の皆様を中心に、200名以上の方々が参集され、ユーモアたっぷりの講演に会場がドッと沸く場面もしばしばでした。

無常の見方 「聖なる真理」と「私」の幸福    お釈迦さまが教えたこと1 原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話 原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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