最高の心とは?/嫁姑問題はなぜ起こる?他(Dhammacast)

| | コメント(0) | トラックバック(0)

「最高の心とは?/嫁姑問題はなぜ起こる?他」(48分53秒)をダウンロード

2008年6月21日に開催された名古屋初期仏教デー(日本ガイシフォーラム)でのスマナサーラ長老のご法話音声(質疑応答)を2回に分けてDhammacast配信します。第2回目は、前半とは打って変わって、子育ての悩み、嫁姑問題の原因と対応法など、地に足のついたやりとりとなりました。

Dsc_4918Q最高の心とは?そこに至るプロセスとは?

A 怒らないためには、精神的なエネルギーがいります。だから頑張りましょう、怒らないために。怒り・欲・嫉妬などあらゆる感情に対しても冷静でいられるように。良いことにも悪いことにも冷静でいられるように。私たちは怒らないで楽しく生きようということを目指しているのです。でももっと上なのは、幸福にも不幸にも冷静、びくともしない心です。一切執着ない状態です。
罪を犯すことは誰にでもできます。悪いことするには、何の訓練もいりません。誰にでもできます。母親に迷惑かけるのは簡単ですが、母親を助けてあげるのは大変です。罪を犯すのは簡単ですが、罪を犯さないのはたいへんなのです。さらに、「善行為」をすることはもっと大変。精神的な力もいります。最高なのは、何があっても心が波を起こさないこと。心が頂点に高まらないと解脱できないのです。みんな、非難されたら怒って気持ち悪くなるでしょ? 「私は非難されても批判されても冷静でいられるようになりました」という人は、人間として成長したといえるかもしれない。でもその人も、褒めてもらうと気分がいい。それはけしからんことだと、私は言うのです。人に褒められても舞い上がってはいけません。それが次のステップなんです。それから三番目のステップは、何にも動じないこと。無知な人と悟った人は似ているように見えるけど違います。無知な人は、何も知らないから無関心です。悟った人はすべて知っているから、知り尽くしているから、何があっても冷静なのです。何にもめげない、動じない心が最高です。

Q 無価値論について。宝石などには執着ない。でも人間がつくった創作物、映画、文学などに対する執着拭い去れない。困っている。どうやったらそういうものへの執着を消していけるのか。

A すべてのものへの執着を捨てなければ悟れないのです。手段としては、慈しみで見ること。「人々の役に立ちますから。人々の苦しみがなくなりますから」という視点で、一時的に価値を入れておくのです。慈しみで見れば、執着につながらない価値観を持つことができます。
私も個人的に、「生きていることは意味がないなぁ」と思ったりします。でも、一日でも元気でいれば、なかなか他のお坊さんにも説明できない、ブッダの偉大なる真理を教えられるんだから……と思うんです。生きていても意味がないと思うと、食べる気持ちもなくなるのです。そこで、慈しみで一時的な価値をつけておく。それも一時的なんです。お釈迦さまはご自分の教えを筏(いかだ)にたとえています。お釈迦さまの真理の教えさえ、「価値」でしょう? 真理というのはトップグレードの価値でしょう? でも、この真理は解脱に達するためにあるのだと。そこで筏にたとえるのです。筏は恐ろしい川を渡るためにつくるのであって、それに乗って安全な境地に至るのです。川を渡ったら、背負って持っていくものではない。そのように、ブッダが語る真理も、解脱に達するまで使ってください。そこで無価値論をもってくるのです。しかし筏は解脱に達するまで価値があるんです。

Q 輪廻について、心がつくったエネルギーが輪廻する、ということでいい?

A しかし、心は体よりもさらに早く変化するんですよ。言葉を聴くたびに心が変わっていく。心は体よりも、ものすごく早いスピードで新しい心になるんです。あまりにもスピードが速いから輪廻転生になってしまう。心を見て、「私」とはいえません。時々、過去にやったことを思い出すと恥ずかしくてたまらないでしょう。そのときも「自分の心」だったんですけど、心は流れですが、過去の流れを思い出すと嫌になったりする。どこにも、「自我」はないんです。心は無常です。体よりも無常なんです。

Q 慈悲の冥想の「私」とは?「嫌いな人々」とくに浮かばないけど、言葉に出すとかえってイライラします。

A 「私」は一般的な単語。主語がないとしゃべれないから使っているだけ。世間の言葉で私、あなた、というくらいのことです。「嫌いな人」と言って気持ち悪くなるのはちょっと問題ある。「嫌いな人がいなくてよかったなぁ」といい気分になるならいいけど。嫌いな人という言葉だけで気分悪くなるなら、嫌いな人がいるよりも危険かも。嫌いな人っていうのは、固定した人ではない。でも嫌いな人って、いちばん親しい人なんです。親しい人々と嫌いな人々は同じ人なんです、よくよく調べてみると。そのつど、嫌いになったり好きになったりします。そこ考えたほうがいいと思います。

Q 3人の子供がささいなことで物の取り合いをして、困っています。

A 子供たちに、「取り合うのではなく、助け合うことがかっこいいんだ」と、「いつでも自分の兄弟を助けてあげなさい」と、そう呪文のように教えてあげてください。子供はお母さんの言うことは一回言っても聞かないんです。何回も何回も繰り返して言わないといけない。それで、ちょっと分かち合う姿を見たら、その場で、その瞬間でちょっと評価してあげたりすること。
しつけは、問題が起きたその瞬間にするのです。「取り合うのは鬼だ」と。それから裁判官みたいにね、「自分は子供3人を平等に大事にしています。でも取り合いしたり、けんかするたびに気持が減りますよ。誰が一番愛されているか、自分で考えてください」と言うのです。そうやって何回も何回もやると、子供たちも兄弟は助け合うものであると、理解していきますよ。そういう工夫が必要です。生れ付きの性格だったら、あとで困りますから。母親の仕事は、子供が持ってきたその性格を見て、よい方向に持っていくこと。生れ付き性格が悪くても、別にかまいません。

Q 嫁姑問題はなぜ起こるのでしょうか? 夫はどう対応すればいいのでしょうか?

A 女性は、男性と性格がものすごく違うんです。女性は命を育てるものだから、我々男よりかなり執着がある。これは生命を育てるためについている性格です。価値観もそこで見る。命を育て守るということで価値観をつけている。だから執着も強いのです。夫が家を建てても、そこは奥さんが支配する。子供のためには夫の部屋もつぶしてしまう。そこに「私が育てているものであって、私が心配しないと大変だ」という価値観が入っている。そこに同じ価値観のお嫁さんが入ってくるから、対立が起こるのです。
嫁姑問題とは、家のなかの命の支配権をめぐる対立です。財産を渡したくないとか何とか二次的にはあるけど、息子の命を任せてたまるか、という心配です。表面的には恐ろしく見えますが、裏に見える命を大切にするという心を復活させてあげないといけません。
仏教の国であるスリランカでは、最初から嫁姑の問題がないのです。姑さんはお嫁さんを「娘をもらう」という気持ちで迎え入れるんです。「家に新しい娘さんが来るんだ」と、本気でそう思うんです。最初から、「息子はあっちに行きなさい」という感じで、嫁さんと仲良くする。そこで女二人でグループを作ってしまう。嫁は最初はお手伝いさんです。だから、いっぺんに姑の立場がなくなる事はない。お嫁さんは徐々に体力がなくなっていく姑さんを助けてあげる。そうすると姑さんも、自由を感じるんです。そうやって、仏教的にアプローチしたほうがいいと思います。日本では、相手を敵にして、「ライバルが現れた」という態度をとるんだから、最悪だと思います。最初に間違えると、ずーっと不幸が続くんです。敵同士のように思っていた相手を介護したりされたりするのだから、お互いに最悪でしょう。最初から、「娘」にしておけば、いかに幸せか。
……具体的なアドバイスはケース・バイ・ケースです。
(息子が)母の面倒を見ることは義務です。結婚した人も他の家族からもらった生命だからとことん面倒見てあげないといけない。だから、どちらかと比較できません。お嫁さんとお母さんを比較して天秤に立てることはできないのです。どうしても、いろんなケースが起きます。落ち着くまでは亭主関白的に厳しい態度をとったほうがいいかも知れませんね。
(メモ:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

赤字部分誤記を直しました。

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 最高の心とは?/嫁姑問題はなぜ起こる?他(Dhammacast)

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://cms.j-theravada.net/mt-tb.cgi/341

コメントする

このブログ記事について

このページは、naagitaが2008年7月12日 02:37に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「2008年度 初期仏教一日体験会」です。

次のブログ記事は「雨安居入り法要」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1