当たり前を認める智慧、『いま・ここ』で幸福になる道(Dhammacast)

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「当たり前を認める智慧、『いま・ここ』で幸福になる道」(57分23秒)ダウンロード

2008年6月21日に開催された名古屋初期仏教デー(日本ガイシフォーラム)でのスマナサーラ長老のご法話音声(質疑応答)を2回に分けてDhammacast配信します。第一回目は、輪廻についての質問への答えを通じて、無常を理解しようとしない、私たちの「あべこべ思考」への鋭い批判が展開されます。

Dsc_8274Q 輪廻する主体は何でしょうか?我がないのならば、何が輪廻するのでしょうか?

A 我がないから輪廻するのです。輪廻のことは解らなくてもけっこうですが、主体がないのだからこそ変化できるのです。主体が何か変わらないものがあるなら、消化できないものをおなかに飲み込んだようなもの。宇宙全体どこを見ても、核たるものはない。原子核という核にしても変化している。自我を前提とした思考では輪廻は理解できません。自我意識を破らなければ。自我が破れれば、「なんだ当たり前のことだ」となります。変化することが生きることです。実体があったら困るのです。ご飯さえも食べられなくなります。

無常だから、実体がないから、物事は変化するのです。変化するということが輪廻です。今の状況が止まれない、変化するのだということ。変化には停止が成り立たないのです。何かに変わって、変わって続いていく。止まることなく変化する。解らないのは、「私」が死んでどこに行くのか、と聞いてしまうからです。それは「馬の翼はどのくらい長いですか?」と聞くようなもの。質問自体があまりにもアホラシイ。「私」は、過去でどこにいたかと探したところで、「あなたは、今もいないんだよ」という話です。今もいろんなものを組み立ててできているのだから。単語をいろいろ使ってもいいけど、実体はないのです。みな私がいると思っているが、性格は条件によって成り立っているものです。ここから家に帰ったらもう別人です。いまもずーっと別人に成り代わっているのに、「私がいる」ということ自体があべこべ思考。あべこべ思考で質問されても、お釈迦さまは答えません。

「私」が成り立たないんだということは、真理を発見しないとわからないけど、「馬の翼のたとえ」を頭で回転させて、ものごとはたえまなく変化するんだよ、と覚えておけば充分だと思います。物はずーっと不安定で変化することを発見するために、物理学者もずいぶん苦労しました。確固たる物質はなりたちませんよ、と発見するために。現代科学よりはるかに卓越した心の研究である、仏教を理解するのは難しいのです。

では、死後は跡形もなく消えるとは言えるのでしょうか? 紙を燃やして消えたら無になったのでしょうか? 変化したのです。燃やした紙の灰を見て、元の紙をイメージできるでしょうか。紙を燃やすと二酸化炭素ができます。二酸化炭素を見て、「これはこないだ読んだ週刊誌の紙だよ」といえるでしょうか。週刊誌という実体があったなら、二酸化炭素を見てそれがわかるはず。実体があるというアベコベ思考では、輪廻の理解は無理です。

その代わりに、人々はひとかけらも証拠もない「魂」をよく信じること。たったひとかけらでも証拠がある? 「魂がある」という証拠が一億分の一でもあるならば出してください。それさえもないのに、魂がある、魂があると。こういうのは話にならないんです。だから、余計なことは心配しないでください。

私が具体的に、人生を一週間で変えることについて教えているのに、それにはまるっきり無関心で、「輪廻転生はどうなんでしょうか?」と聞く。やっと幼稚園に入った子供が、幼稚園でやることを何もしないで、「お母さん、宇宙船に乗せてください、宇宙を旅したいんだから」と駄々こねるようなもの。

「いま・ここで幸福になる道」をブッダが教えているのです。それに挑戦してみたほうが現実的だと思います。

他宗教を例にすると、仮に創造記のアダムとイブの話が嘘だったら、人間には原罪という罪がなくなる。原罪がなくなったら生きることはなぜ苦しいかとキリスト教徒に説明できなくなる。神は全知全能なのになぜ苦しみがあるのかと、アダムとイブの話を考えた。それを否定されたら、宗教が崩れてしまう。そんな屁理屈は喜んで信じるのに、輪廻転生はどうのと、毎回質問されるのですね、日本では。

輪廻転生はあったりまえのことです。宇宙の現象すべて輪廻ですから。太陽があるということに証拠出す必要ない。地球が丸いということは事実。「私に解らない。ゆえに地球が丸くない」というのはちょっと我慢してほしい。お釈迦さまは、巨大なスケールで、一切の真理を知り尽くした上で語っているのだから、われわれに消化しきれないことはあります。昨日もちょっとアビダルマの文章を作っていたのですが、こころの認識プロセスについて、いくら頑張っても一般の方々に理解できるように語ることは難しい。頭の中にデータがあるのに。

お釈迦さまは一切を知り尽くした方です。われわれはまだ調べている途中なんです。でもお釈迦さまは、誰にでも真理をわかるようにはしています。そのためには心のレベルをもうちょっと向上させないといけない。アベコベに考える、非論理的に考えることはやめないといけない。自分の主観で考えることはやめないといけない。ありのままに考えるという能力が必要なんです。そのためにはそれなりの方法も修行もあります。

また他宗教の立場から考えると、人間はみな原罪で苦しんでいると。女性はお産で苦しむと、聖書に書いてあります。神の怒りによってわれわれの苦しみがあるという。神は全知全能で慈悲深いといいながら、永遠に人類を呪っているのだから。とんでもなく恐ろしい思考でしょう。人間は罪を犯した本人は罰しても、関係ない家族は逮捕しません。それに比べて神はなんだと。屁理屈です。その屁理屈を発見したら、とらわれないで済みます。

神が人類に苦しみを与えたというなら、その苦しみは同一のはずです。しかし、生きる苦しみはそれぞれです。なぜ苦しみが個人個人違うのか。原罪の話を信仰する人々に聞いてみたい。原罪なら全員同じはず。しかし苦しみはそれぞれ違う。出産の苦しみも、子育ての苦しみも、人それぞれ。なぜこの差があるのか。だから仏教はひとりひとりは個人であって、その個が自分の行為によって幸福も苦しみも味わっているのだという。それなら答えは簡単でしょう。

この花瓶に生けられた花を見ても、みな同じことは感じません。個人が花を見て感じる楽しみは、それぞれですが、その個人も、自分がいる場所によって、年によって、また異なる。そこには神の言葉も、予言もいりません。ただありのままに物事を見る能力があればわかります。なぜ違うか、いろいろ理由はいえます。それらを全部カットしても、違いは残るのです。それは過去の業です。同じ夫婦から子供がうまれる。たとえ一卵性双生児でも、違う人間です。同じにはなりません。

……ドラゴンがいなくても、ドラゴンという言葉はあります。言葉にひっかかるのは危ないのです。魂という言葉があるからといって、魂という実体があると勘違いしてはいけないのです。理性と論理でものごとを考えれば大丈夫ということです。

私からいくらつぶされても、疑問に思ったことを質問する勇気を捨てないでください。

証拠のないこと信じられないという人々に釈尊はいわく、殺したり盗んだりうそをついたり……と、あらゆる悪行為をすることはよいことでしょうか? 知識人なら、それは悪いことだと答える。そういうことをするとよい結果が出ますか? 出ません。では、殺したり盗んだり嘘をついたり……する人を社会がほめますか? ほめないです。では、もし死後があったならば、その人はどこにいくでしょうか? 死後があるならば不幸なところに行かないといけない。反対もしかりです。超越した知恵がなくても、ほら、法則は知っているでしょう? という話です(カーラーマ経)。悪いことしないで、良いことしなさいと。

宗教はみな、自分の宗教を信じる人は天国にいくといっている。イスラム教とキリスト教と天国に行く方法が違う。では天国に行くのはどんな宗教を信じる人でしょうか。

釈尊はこうおっしゃる。もし死んでから永遠の天国がなかったとしましょう。正しかったのは他の宗教だったとする。そしたら後の祭り。教えが正しいといま、ここで経験しなければ理性ある人は納得しません。だからお釈迦様は解脱ということをいま、ここで体験できるように教えて下さったのです。もし解脱を体験できなくても、仏道を歩めばその日から幸福になるのです。

輪廻は人間の理解範囲を超えているので、私は話のテーマにしたくない。でも、日本ではよく聞かれます。日本のお坊さんは堂々と輪廻を否定するんだから。それで唯物論を語るのです。宗教を否定しているんですから、だったらお寺からも出て行ってくださいといいたいですが……。

自我というものは成り立たない。すべては絶え間なく変わるんです。太陽も、地球も変わり続けていますが、それぞれの変化の周期は違う。花の変化も違う。手のひらの氷の変化のスピードも違う。現象の世界ではばらばらに変化しますが、真理の世界では物質はみな同じスピードで変化します。それは冥想したりして体験できる。お釈迦さまの教えが正しいことはいま、ここで体験できます。あなたがたが「慈悲の冥想」でもしたならば、地獄に落ちたくても落ちられません。誰にでも優しい人は、死後どこに行ってもそこは天国です。仲間として心配しあうのだから。

だから死後の世界はどうでもいい。心清らかにすることに励んでください。
(メモ作成:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように

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このページは、naagitaが2008年6月24日 03:11に書いたブログ記事です。

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