KY(空気読めない)の自分をどうすべきか?(Dhammacast)

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Dsc_0140 Q:瞑想実況をするときに、言葉にあわせて動いているような感じになってしまうのですが……。

命とは「感覚」のことです。感覚器官(六根)によって感じる波動が違うだけで、肉体に生まれているのは同じ「感覚」というシステムなのです。分析すれば単純なことです。ヴィパッサナー瞑想はその感覚というシステムの研究です。生きるとはシンプルなことである、と発見することなのです。

冥想は、決して気休めではなく、智慧を発見することなのです。「膨らむ、膨らむ」と先に言葉が出てもいいが、感覚をじーっと感じてみることです。感覚をキャッチすることです。実況中継によって、思考停止しないといけない。智慧が現れるように。思考があるとレベルが低いんです。智慧は「感覚の発見」から始まります。ですから、言葉が空回りにならないように。

実況中継で、言葉を先に言う人は間違いが多いんです。焦っているんですね、観念で。言葉が遅れて後になる人は、集中力はないけど、気づいたことを言葉にしている。それは事実です。先に言葉で言ってしまう人は、まだ現われていない、事実でない、観念に拠ってしまっているのです。感覚を感じることは欠かせません。

Q:幼い頃から、「もっと物事をよく考えるように」と言われたり、仕事の上司からも「もっと人の気持ちを考えて仕事するように」とか「空気を読め」とか言われます。どうしたら空気を読んだり、人の気持ちが分かるようになれるのでしょうか?

なぜ「空気読めない」かというと妄想しているから。妄想の時間で生きている。過去に生きているんです。何か考えていると、空気は読めません。心がずーっと過去に行っているのだから。過去は実在しないものです。ただ肉体が現在にあるだけで、心はどこか過去に行ってさまよっている。現在を生きる人、妄想しない人は能力が付きます。何も考えないで、ただ行動するのです。

雰囲気を読むのはすごく簡単です。犬猫でもできます。犬を飼ったことのある人はわかるでしょうが、犬はいつでも自分の気持ちにぴったりあってるんですね。なぜでしょうか? 犬はずっと飼い主の心を読んでいるんです。心を読んで、それに反応している。結局は「人間が犬に飼われている」だけです。対等じゃない。もし犬と対等になりたかったら、犬の気持ちを読まないと。人間が犬の気持ちを読んであげると、そのときはじめて、犬は自分のわがままを言うんです(それもまた厄介ですけどね)。

自分が犬を散歩すると解らないけど、他人が犬を散歩してるのを観察してみるとよくわかりますよ。犬は飼い主の表情や仕草を気づかれないように見ているんです。ですから、雰囲気を読むことは犬でもできます。

世間で「もっとよく考えなさい」と教えているのは、「正しく対応しなさい」という意味なんです。ゴチャゴチャ考えろ、という意味ではありません。「空気を読め」という場合は正しい教え方です。空気を読めない時は、頭が過去にある。過去にいるんです。過去にいる人にとって、現在はとてつもない大変なことです。未来はまだ現れてないのだから、当然わからない。ワンパターンならば推測できます。しかし事実はワンパターンではありません。将来は手に負えない。そこで、妄想してあえて過去に行っている。もう、お手上げ状態です。いまの、その時間に生きていないで、まだ過去にいるんですから。時間だけは減っていきます。これって、ルームランナーの上を走ってるようなものです。いくら頑張っても、走行距離はゼロです。くたくたになって結果なし。浪費、無駄です。

むかしは、人間と動物に差はなかったんです。いまを生きなかったら死にますから。いまこの獲物どう捕るか。それで能力開発したんです。いまのことばかり考えたから。でも、言語が出てきて考えるようになったら失敗ばかりです。神とか宗教とか、そういう下らない思考のお陰で、差別、嫉妬、憎しみ……一切の悪がでてきた。動物はまだ本来の能力を持っています。でも、人間は文明の発達とともに、気持ち悪い肉の塊になってしまった。ただ、道具のお陰で生きている。本人に何の能力もないシロモノになってしまったんです、考えることで。

いつでも、生きるためには、自分でもっている能力が必要です。人間の能力は退化してゆくんです。個人個人が生き延びないといけない。個人の能力が必要です。社会を開発すればするほど、人間の悩みは増えるんです。ちょっとしたことも解決できなくなります。現代人の生きる幅は極端に狭いから、人づきあいって言っても、ホンの数人とのことでしょ? それさえもうまくいかなくて困っているのだから。何人かとの人付き合いもできないようでは、生きる権利さえもないんです。

私たちは、生命として持つべき能力を失ってはいけない。たとえ、足一本なくなったとしても大丈夫です。でも、内蔵は大事にしないと。外面のことばかり気にして、すべてを司る脳細胞に無頓着でいる。それって、コンパスを大きな磁石に近づけたままで、方角を調べるようなものです。「現代文明」という地場で針がずれている。「生きる」というところからずれているのです。

瞑想とは、妄想をやめることです。過去に行きるなかれ、という実践です。ルームランナーの上を走っても、マラソンに参加したことにもならないのです。マラソンで最下位になっても、かっこ悪いことはない。でも、参加しないのはかっこ悪いです。心は過去に行って、肉体だけ置いてある。肉体はどんどん年をとる。時々、現在に戻ってもくたくたに疲れて何もできないんです。「年取りたくない」というのは、今を生きてないからです。今、やるべきことやって来なかったからです。だから、未練たらたらで死ななければいけなくなる。現在だったら、現在を生きていないといけない。状況が変わったからといって、困った困ったと悩むことはありません。仏道を歩むとその瞬間から、幸福になるのです。

自分に本来ついている能力を取り戻すことです。「落とし物」を拾ってほしい。自分が落としたものですから、自分で拾わないと。そうして、人間が達するべき境地、「解脱・悟り」までで到達することができるのです。人間のレベルを乗り越えることが瞑想です。

ただ「人間に戻った」だけでは修行の終わりではありません。人間を乗り越えるのが修行の完成です。過去は死体です。処分すべきものです。抱きたければ、生きている人を抱いてください。悪臭を放つ過去を抱くものではないのです。

(2008年3月20日ゴータミー精舎での法話より メモ文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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このページは、naagitaが2008年4月 3日 05:11に書いたブログ記事です。

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