ダンマパダ講義 賢者の章 78偈

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2007年12月23日に開催された、スマナサーラ長老による今年最後のダンマパダ(法句経)講義のメモを掲載します。

na bhaje paapake mitte.
悪友とつきあってはいけない、
na bhaje purisaadhame.
卑しい人とはつきあってはいけない。
bhajetha mitte kalyaaNe.
善友とつきあいなさい、
bhajetha purisuttame.
尊い人間とつきあいなさい。
(Dhammapada 78)

スマナサーラ長老 撮影:相田晴美

これは一般的な教えです。お母さんも言ってくれる、決して珍しくない言葉です。

なぜ悪人と手を切らなければいけないのでしょうか。
それは、「影響を受けるから」です。

人付き合いとは互いに影響を受けることです。
関わりを持って生きることは影響を受け合っていることです。
物理的な関わりではなく心の関わりなのです。
生命とのつきあいは確実に心のふれあいになります。
しかも、影響は一方的ではないのです。
強い人の影響を弱い人が受けるのです。
「朱に交われば赤くなる」のは、本人が弱いときです。
本人の心が強ければそうならないのです。
これは、法則として覚えておくべき事です。

どうしても仲間に入りたい、人とつきあいたい、友達をつくりたいと思っているとき、危ないのです。自分の芯が弱いからです。「誰でもいいから友達がほしい」という状態は危険です。相手の影響をもろ受けます。芯が強い人は、無理に他人とつきあいたいと思わないのです。

恐ろしい悪人の場合、彼らは芯が強いわけではありません。
弱いからいつも一致団結してグループを作るのです。やくざ、マフィア、テロリスト、どれも一番腰抜けがリーダーでしょう。彼らは部下に人殺しを命令しながら、徹底して隠れて、自分の命が完全に保証されない限り出てこないのです。

世間のおろかさは、悪人に力があると思っていることです。一人一人が腰抜けだから、悪人の組織は強い、なかなか壊れないのです。ミツバチ一匹では生きられないように。ミツバチは女王のために必死です。しかし女王蜂が強いわけではない。女王蜂は一人では何もできないのです。一致団結するというのは、一人一人が弱いということです。

悪人の組織はそう簡単に潰れません。麻原の組織も名前を変えて残っているでしょう。理由は一人一人弱いから誰かに徹底的に依存しないと生きられないのです。これが世の中に普通にある事実です。

グループに入りたがるのは腰抜けだから、朱に交われば当然赤くなるのです。これが世の中の2番目の事実です。

必ずしも友達が居なくてはならないということはありません。しかし、世の中で「友達がいらない」という人々は、わがまますぎ、自我が強すぎです。自我が強いと、暗くなって潰れてしまうのです。

芯が強いのは、善行為をする人です。はじめからしっかりしている。わがままもないし、自我も張らない。一人でいても周りが彼をつぶす必要はないのです。

悪い思考を持った時点で気が弱いのです。そうすると、仲間が必要になるのです。

そういう世間に対して、お釈迦様は「よい人間になりなさい」と説きます。芯が強くなること、独立することを説くのです。「芯が強い人は孤独を楽しむ」のです。

スッタニパータに、「腕輪が二つあるとうるさいように、人とつきあうのは煩わしい」という喩えが出てきます。だから一人で生活するのだと。しかし、これは一般人に出来ることではないし、理解もできないでしょう。スッタニパータは日本で人気ですが、みんな偈の表面だけとって、勘違いして実行しようとする。これは、「善を完了した、一切の依存を断ち切った人」の話であって、一般人には関係ないのです。パーリ語の元の言葉を離れると、意味が落ちてしまうのです。

仏教では「一致団結して繁栄しよう」ということは成り立たない。仏道は依存を絶つことを実行してみる。できるところから依存を減らしてみるのです。

出家者は、本当の出家者は依存をいきなり捨てるのです。関係を引きずるのは生臭坊主です。本当の出家はいきなり依存を切ってしまう。そこで自分の芯が強くなる。切る縁がなくなったところで修行は完成。それは長い道順なのです。

衣・食・住・薬の依存を切る出家の行き方は、依存にどっぷり浸かっている人にとっては嫌な世界です。そこで俗世間では、依存を離れている人を羨ましくなるか、ケチ付けたくなるのです。

世の中では、家柄に依存する、身分に依存する、神様仏様に依存する……。仏教では自己観察をして、いろんな関係を切って、切ることで芯が強くなっていくのです。関係を切ることと芯が強くなること、これは両方ないといけません。ただ子供がわがままで家出をしても意味がない。家から出るならば、しっかり独立して生きていかないといけないのです。

輪廻転生っていうのはどんな生命でもある生き方で、おもしろくない話です。仏教では、ただ事実だから言うだけ。生命は一つ一つのユニットでできていて、死んだら終わりです。生まれ変っても、また初めから全部学ばないといけない。いろいろ積み上げても、死んだらゼロからスタートです。過去があっても何の役にもたたないのです(過去世で積んだ徳、性格のようなものは受け継ぎますが、その生命の種類で必要な生き方はゼロから学ばなければいけない)。

人間が死んで犬に生まれ変わっても、人間の人生は何の役にも立たないでしょう。犬が死んで蛇になっても犬だった経験は役に立たない。輪廻はただの事実に過ぎません。輪廻は厭離すべきものです。たとえ、善行為をして神に生まれかわっても、そこでまた「神の生き方」を学ばないといけないのですから。たいへんです。

ここで言いたいポイントは、「我々はゼロから学ばなければならない」ということです。
学(sikkhaa シッカー)には、「しつけ」という訳語がふさわしいのです。
生命は、しつけがないとどうにもなりません。しかし、人間はしつけを嫌がります。
しつけがいやだったら、その生命のユニットは終わり、生きていられないのに。
しつけは運命みたいについてくるものです。

だから、「しつけを嫌がらない」ことが楽に生きる方法です。

「ここで何をまなぶべきか?」とさっさと学ぶ。しつけが嫌だと思うと、人生、生きてられない。しつけは捨てられない、輪廻転生する限りしつけから逃れられないのです。だから、「誰とつきあうか?」は大切です。悪人と断固と縁を切ること、善人とつきあうこと、それで芯の強い人間になるのです。

たとえ悪人の仲間だったとしても、本人がそれに気づいて断固と縁を切ったら、その人は何倍も強い人間になっている。悪と縁を切ると、心の芯が強くなるのです。それから生き方を学ぶために善人とつきあわないといけません。

依存ばかり教える宗教はよくないのです。「依存をカットするために、善友とつきあいなさい」とブッダは言っている。しかし、神のようにブッダを信じると依存から離れられないのです。だから、「ブッダは最高の善友である」と自ら宣言します。当然ブッダの教えにはしつけがある。それで人格が向上します。仏教は、一致団結して強くなろう、という話ではないのです。徹底した和合を説くが、依存は説かないのです。

たとえば、ある出家がわがままをすると、見事に無視して相手にしないことにする。決定をする場合でも、(自分の意見を張って)多数決することは禁止です。サンガは、私の意見ではなく、ブッダの意見に団結するのです。個人の意見、生き方は通じない世界です。それも依存を切って自我をなくすことです。

私たちは、いくら嫌でもまわりの影響を受けます。周りから、知らず知らず「しつけ」を受けてしまうのです。だからすごく気をつけないと。人は呼吸しないと生きられないように、影響を受けないと生きられないのです。24時間そうです。たとえ夢を見ても、影響を受けます。悪い影響が入ることを切らないと、人格は育たないのです。

では、私たちは、どうやって「悪人」とわかるのでしょうか。自分だって性格が未熟なのに。小学生が学校のよしあしを判断できないようなものです。私たちには、判断する資格もないのだと理解しないといけません

そのときは、「偉大なる善友」たるブッダに訊くしかないのです。
他の人に訊いても、間違った道をしっかり教えてくれるだけ。

人間は生命として平等で、行為によって区別されるのです。生まれではなく、行為で差が付きます。行為で選別されるのです。立派な人になるか、卑しい人になるかは自由です。ずっとペンディング状態で、未来は解らない。二十歳まで「いい子」でも、二十一歳で人を殺したら「人殺し」になります。人の価値はいつでもオープン価格。行為によって変わってしまうのです。

行為によって、善悪で、人を判断することです。性格で人を選ぶと愉しい人生になります。学歴も職業も財産も評価対象にならないのです。

善行為する人が善人です。悪行為する人が悪人です。ブッダが説かれた善悪のリスト(十善十悪)はしっかりありますから。

悪人 < 卑しい人 プリサーダモー purisaadhamo

adhama アダマ worst,一番卑しい。purisaadhamo は、影響力ある、カリスマ的な悪人です。周りを悪に引き込む。最低の人間です。ただの悪人よりも、影響力のある悪人の方が悪いのです。

善人 < 尊い人 プリサウッタマ purisa uttame

ただの善人よりも、他に善を勧める人が、影響力のある善人が尊いのです。人格のカリスマ性が、善につくか、悪につくかによって変わるのです。

学(sikkhaa シッカー)とは、「しつけ」のことです。
「悟ってない人」とは、「有学」つまり、学ぶべきこと、しつけられるべきこと、が残っている人、
「悟った人」は「無学」、学び・しつけが終わった人です。

世の中にある「神の言葉」は、どこかから持ってくる「異物」でしょう。無いものを持ってきて、信じろと押し付けるのです。

ブッダの言葉は、目の前にある状況を分析して説明する「科学」です。あるものについて語るのです。学ぶことは生命につきもの。「ではどうするのか? どうすれば完成するのか?」と研究するのです。

「どう生きるのか?」を学んでも、生きることは完成しないのです。どう生きても輪廻するだけです。

「生きるとは何か?」と学ぶならば、完成するのです。生きることを乗り越えられるのです。

……

(文責:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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このページは、naagitaが2007年12月24日 00:56に書いたブログ記事です。

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