仏教の堕落と再生/ほんとうの慈悲

| | コメント(2) | トラックバック(0)

「仏教の堕落と再生/ほんとうの慈悲」(25分25秒)をダウンロード

Dsc_0054
アルボムッレ・スマナサーラ長老の法話ポッドキャスティングです。

(2007年7月14日 名古屋市日本ガイシフォーラムにて収録)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 仏教の堕落と再生/ほんとうの慈悲

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://cms.j-theravada.net/mt-tb.cgi/278

コメント(2)

 A・スマナサーラ長老の法話を楽しく聞いております。

-- 自分流の解釈でお話を聞く?--

 お釈迦様の教えは正しい。
 しかし、経典を読んでも、法話を聞いても、人々は自分流の解釈で自分に都合の良い教えを持つと、私は聞きました。

 なぜ、人々は自分流の教えをもつのでしょうか?

 それは、自我という色眼鏡で自分に都合の良い解釈をするためだと、私は聞きました。

 人間の過去の経験や知識、伝承・習慣が既成概念となり、それを判断基準にしている為であると、長老が説かれているのだと、私は聞きました。

 だから、『慈悲の瞑想』についても、
 長老が"正知”の『慈悲の瞑想』を説かれているのに、それを聞いている人々が、自分流の解釈による、"誤知"の『慈悲の瞑想』をしている。
 だから、何年瞑想しても、"誤知の瞑想"では、”お釈迦様の慈悲の瞑想ではない”と私には聞こえてきます。

 私は、法話をお聞きしていますが、疑問というものが生じません。
 とても、不思議なことです。ただ、直後に心が喜ぶだけです。
 
 長老の法話を聴聞しても、まったくその通りであると、直後に心が喜ぶのです。

 ただ聞く、

 そこに『私が思う』というものが感じられません。

 『素直に聞きなさい』。

 そのように長老が法話をされていると、私には聞こえてきます。

 生きとし生けるものが幸せでありますように

 --私の感じる本当の慈悲とは?--


 仏教とは、仏陀の教えのこと
 教えとは、思いやりと優しさ

 ある日のことです。
 私は、室内を静かに歩いていました。

「本当の私とは誰か」と自問しながら・・・、

 悪いことをすれば後悔をする。
 そのような優しい心が私に存在する。
 その心に懸命に従おうとしている私がいる。

 ということは、
 私の主人公は、"その心"ではないか。

 もし、一生その心に従えば、
 "その心" が本当の私ではないか。

 突然でありました。

 冷たいものが身体を駆け抜け、
 鳥肌が立ち、
 床下に抜け落ちるような恐怖、

 命も肉体も、
 この世というもの全てを失う恐怖でした。

 慈悲の心 それが私なのです。

 本当の慈悲とは、無我の行為なのです。

 それは、思いやりと優しさ

 私は、このように感じています。

 老いた母は私を見た瞬間、言いました。
 『ヨシは死んでしもうたのう。顔が変わっている』

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

コメントする

このブログ記事について

このページは、naagitaが2007年8月25日 22:50に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「大棚の滝(沼津)にて」です。

次のブログ記事は「講演1(前編)『目覚めへの招待 あなたはまだ眠っている』」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1