[Dhammacast]ブッダの「無価値」論/ブッダの道徳・世間の道徳

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「ブッダの「無価値」論/ブッダの道徳・世間の道徳」(48分27秒)をダウンロード

A. Sumanasara thero. Photo by Harumi Aida

アルボムッレ・スマナサーラ長老の法話ポッドキャスティングです。2007年6月9日 「ヴィパッサナー冥想と法話の会」(ゴータミー精舎)での質疑応答より。以下、講義のメモと併せてお聴きください。

●ブッダの無価値論

Q:何冊か長老の本を読みました。その中で「心を壊してしまう」という一節を読んで怖くなった。心を壊してしまってホントに大丈夫なの?

A:その文章の脈絡が解らないと言いにくい。しかし仏教は幸福の道を語るから、仏教の言葉に怖くなる必要はないんです。仏教は幸福になるために、不幸の原因を壊すんです。不幸の原因に「価値」を入れるとそれが残ってしまう。なぜ幸福になれないか? ずっと原始時代から人類頑張っている。いろんな開発しながら、発展しながら現代まで。目的は一つ、「幸福になりたい」と。宇宙にまで行くけど一向に幸福にならない。あらゆる技術あっても地球上の人に食べ物がない。いまだに人殺しもやめられない。原始時代からいままで人殺しをやってきた。ぜんぜん幸福になってない。

これは何か問題あるはず。仏教はとっくに発見しています。「あんたのエゴだ」と。自分のことしか考えられない。自分のエゴで幸福だと思うのは、不幸の道です。周りの多くの人にも迷惑。エゴで自分も世界も道連れにする。核兵器、勝手に爆発して死ねばいいけど、地球にも影響。でも、核兵器を「みんなでやめましょう」ではなくて、私は持つけど、あなたは持つなよと。いかに屁理屈でエゴでわがままかと。一向に世の中は幸福にならない。声高に平和を語る人々が他国に爆弾落とす。人権問題を叫ぶ人々の国ではひとかけらも人権ない。人間、自分のことしか興味ない。仏教から:自分のこと考えてもいいから、正しく考えなさい。なんで不幸になることするのか?

ブランコの代わりに紐で遊んでもいいけど、紐を首にかけるのはどうして? 首が絞まったら一巻の終わりです。われわれエゴイストだけど自分を不幸に導いて、周りも不幸に陥れる。壊すべきものたくさんあります。壊すというのは言葉であって、実践にあたって、こわいもの一つもないのです。だから、心配しないで。

私は「壊す」という言葉で何を言いたいかといえば、「価値」ということです。ガラクタに価値いれるとどうなりますか? 骨董品、ガラクタ。200年前の皿だと、価値入れると捨てられなくなる。縄文時代の土器の破片だと。ただの土だけど、縄文時代という価値が入ると捨てられなくなる。価値いれることによって問題起こる。無常という言葉でそれを攻撃している。無常は事実です。ただの観念的価値ではない。縄文時代という価値は日本人だからあるのであって、……中国人にとっては面白くない。「2000年くらい何だ」と。価値というのは事実ではない。無常は事実です。無常はわかりやすいでしょう。シャボン玉はきれい。すぐはじける。そこに「価値」は、ないんです。シャボン玉がはじけて誰も困らない。シャボン玉の美しさはすぐはじけることにあるんです。価値から執着が生まれる。無意味なことにべったり執着が生まれる。持つ、持たない、で傲慢になったり。限りなく心が汚れる。互いに戦争するまでになる。平和がまったく消えてしまう。価値という一言で、憎しみ、恨み、だけになる。そこはかなり落ち着いて自己観察して、価値は成り立たないとわかると心はすごくきれいになります。怒りがうまれなくなる。恨み憎しみ、うまれない。傲慢も消える。そこで本物の幸福が出来ている。自分だけではなくその人の周りも幸福になる。

Q:時代とともに発展する、進歩するということにも「価値」が入ってますか?

A:みんな価値を入れているでしょうに。俗世間は価値で生きている。発展も価値論です。だから発展しても幸福にならない。現代、発展するスピード速いけど、裏にある狙い。差別、多数の人々をどん底に落とすこと。新薬開発、特許とって人類のものにはしない。一部の財産にする。あらゆる商売、競争、弱肉強食主義を徹底している。人類どんどん不幸になる。無知だから本人も知らない。これできればすごいぞというだけ。結果見ると、人間の苦しみなおさら拡大する。医療技術は発展すればするほど多くの人々には受けられない結果。それに医療というべきでしょうか? 発展するということ、すべて価値論です。世間はすべて価値論でやっている。「無価値」という世界は仏教以外に無いのです。唯一仏教にしかない概念です。宗教は絶対価値を語っている。腐りかけた肉体に至福の魂がいると。見せて欲しいけど。すべて支配してる絶対的全知全能の神がいると。そんな奴いるなら、なぜ微塵も知らないのか。そういう絶対価値が、アメリカがやってるような貪欲の価値より恐ろしい。絶対価値を奉じる連中は、延々と殺し合いを続けるのです。

仏教で「邪教」といっているある教えがインドにあった。七元素が絶対的でまったく変化しない。それが組み合わさって牛もいれば人間がいる。七つの元素は柱のごとく固定して変わらない。人が剣で他人を刺しても、七元素は微塵も変わらない。七つの間に穴が開いただけ。人を殺しても罪にならない。元素は変わらないんだから。一人殺しても一万人殺しても。どうってことない。得た罪もないし、得た得もない……という教えがあった。

ポイントは、絶対的価値を入れるとその時点で道徳が壊れて、いかに恐ろしいかということです。真理は「無常」ということです。私の心は無常だから、きれいかもしれないけど、汚れちゃう。その時は汚れた心。怒りで汚れていて、気分が良くなって喜んだら、喜びの心。変わったんです、だから気をつけないと。そのたびに結果が出ますから。無常だから結果が出る。絶対的価値は間違っているし、結果も危険。無価値、現代的に私が作った言葉。それは仏教の思想からしか成り立たない。無価値は気楽です。価値といったとたん気が重くなる。発展も価値論なのです。

●ブッダの道徳・世間の道徳

Q:世間で言っている道徳と、仏教で言っている道徳はだいぶ違うような……

A:相当違うと思います。世間で言う道徳は、自分の立場を守るために他人に言っているお説教でしょう。仏教の道徳は、あなたの幸福のために守るものだ、というならば説教になりません。日本の道徳、西洋思想、キリスト教から作る。道徳ではない。もう一つの方法で人をいじめるだけ。人殺すのは他人に迷惑といいつつ、戦争で人殺しするのは賛成する。だから子供は怒るんです。「いじめるなよ」と言っても、いじめるくらいどってことないだろうと。

世間の道徳は、ライオンがガゼルに「どうしてそんなに早く走るのか」と説教するようなもの。ライオンには、餌のガゼルが足早くて逃げるのは迷惑です。だからしつこく言う。「草は一箇所にあるから、止まって一箇所で食べなさい。行儀が悪い」と。それはライオンにとって都合がいいんです。社会の道徳はそんなもので、仏教から見ると説得力ない。西洋でも殺す無かれと言う。仏教でも不殺生と言っている。でも西洋には、なぜ殺してはいけないのか、という理由がない。ただ、「聖書に書いてあるから」というだけ。聖書は精神的にいかれた人間の作品だけど、殺してはいけない理由書いてない。理由もいわないでいうこと道徳と思っているが、それは冗談。だったら何でもいえる。ああしろ、こうしろと。聖書にあるから、モーゼに言われたとか、それだったら道徳と関係ないよと。ユダヤ民族のために神が言ったことだから。神はユダヤ人以外に人間いることすらしらない。神が人間造って、殺すなかれというのはどういうわけか。私が神なら、お前ら作ったのは俺だ。私がつくったもの、手を出すなよと。それくらいの理屈知らないんです。逆らったら伝染病やらなにやら、さんざ殺して脅す。

インドにいいエピソードあります。物語でむずかしい哲学を教えています。
ある日、台風で雨が降って、山の木が倒れた。動物もどうもできない。そこで立派なゾウがおて、片っ端から森を片付けた。ようやく皆が森を通れるようになった。そこで、一匹のカメレオンが横に捨ててあった木の枝にいて、くびを振っている。それで「私が片付けたから自由に行き来できるでしょう」と自慢する。動物が話し合う。木の枝一本動かせないカメレオンが何言うのか。調べたらゾウさんがやったこと。いいかげんなこというなよと。われわれ自由に動けるのはゾウさんのおかげだと。「なにいってるのか、だったら、私(カメレオン)とゾウと対決してやるぞ」と。それで戦う。悪いことに、カメレオンが策略めぐらせて勝った。森を片付けた手柄はカメレオンのものになってしまった…… これは世の中の真理を語っています。つまり、言ったもの勝ち。森の片づけしたのはカメレオンになってしまった。「それが世の中のやり方である」と子供たちに言うのです。

世の中で、「これは神の仕業だ」というのと、カメレオンの話は同じこと。実際は神に逆らえば逆らうほど上手くいく。科学は徹底的に神に逆らうこと。創られたままだったら、人類はいまだに動物の中にいるでしょう。伝染病は神の特権とされていましたが、いまはすぐに治します、科学のテクノロジーで。神が乾期や洪水で脅しても、対策はあります。現代の地球の環境危機は神の仕業ではない。そういういい加減な人間の妄想では道徳なんか成り立ちません。真理でなければ道徳は成り立たない。

「殺す無かれ」は、世の中でブッダ以外、立証すること出来ない。ブッダが言うのは、生命は生き物でしょう。生き物としてみれば、どんな生き物も生きて生きたい、死にたくないという気持ち持っている。私も。皆さんはどうかわかりませんが……。だから、私は病気になると薬飲んだりします。苦しみたくないのです。生命は生きていたい、苦しみたくない、死にたくない。これは、どんな生命にもはっきりしている、「生命の憲法」のようなもの。それが尊厳なんです。だから私には生きる権利あるんです。それを誰が取り上げることできるか?それを他の人から取り上げるなら、生命の法則、宇宙の法則に逆らっている。あり一匹殺す権利はない。アリも自分で生きている。絶対奪えない権利侵すのは、相当の罪。それで奪った時点で自分の権利、幸福に長生きする権利を自分で放棄した。殺生する人は短命・病弱という業で語っています。今世に限ったことではない。今世で逃げることできても、身体くたくた壊れているはず。遊びで狩したり釣りしたりするひと、頭がおかしくなる。今世だけではなく来世でも短命、病弱、殺されたりして、キリがないんです。

生命の法則を知っているなら、一匹の生命も奪えない。それは自分を守るため。教えてもらっていやいや守ることは無い。我々が戒律道徳教える場合は、ただ教えてあげるだけ。「これが生き方だよ」と。決して「やりなさい」とは言わない。その権利はない。幸福に生きたいものはこういう生き方するんだよと、それで仏教の責任果たした。その後はその人の自由です。でもブッダの語られた道徳を実行すれば、幸福になる。やらない人は不幸になる。反対した人はなおさら不幸になる。そのように道徳語らないと。

自分が騙されたくないからウソつかない。ウソつくのは他人にいえない、やってはいけないことやっているから。言い分け言ってウソ言わなくちゃいけない場合あるとか、ありえない。お釈迦さまは人笑わらわせるためにもウソいうなと。生命の真理を知って、生き方を語ったのが道徳。道徳語る権利あるのは、悟った人だけ。あとは状況に合わせて「授業中は迷惑だから大騒ぎするな」という程度です。その都度その都度のことに過ぎません。仏教の道徳は違う。時代によって変わりません。改良も改革もできない。そんなたくさんもない。ホントは、怒りと欲と無知をコントロールするだけ。それらはエゴから出てくる。項目は 10(十善十悪)しかない。守るべきものは、それしかない。

世間の道徳は一時的。その都度考えるもの。超越して智慧で人類の究極的な幸福を目指して説かれているものではない。その場でそのときだけ通じる道徳。それも守るべきだが、仏教の道徳は普遍的で変えること出来ない。お釈迦さまにも道徳を発明できない。法則にあわせて、(幸せになるには)こういう生き方だよというだけ。ロケットが宇宙に行くための計算のようなもの。好き勝手はできない。法則は法則。カッコ悪い、迷惑だからと、勝手に飛行機の翼を切り落としては飛べないでしょう。それと同じく仏教の道徳もシステムとして変えられない。幸福になりたければ、守らないといけないのです。(メモ作成:佐藤哲朗)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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このページは、naagitaが2007年6月10日 00:29に書いたブログ記事です。

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