年末特別法話会での質疑応答

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今日はゴータミー精舎の大掃除。朝から大勢の方が駆けつけてくださり、精舎のあちこちにたまった一年の埃を払いました。寺猫ナミは、菩引っ込み思案のイナリといっしょに、今日は掃除のあいだ、事務所倉庫のダンボールのなかに自分から梱包されて寝ていました。

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午後からは、スマナサーラ長老による年末特別法話会が開催され、活発な質疑応答が交わされました。その一部を速記しましたので、以下にご紹介します。

スマナサーラ長老 年末特別法話会での質疑応答
2005/2549年12月25日 ゴータミー精舎にて(文責:佐藤哲朗)

Q:自分を見ると、面倒くさい、怠けたい、という心があります。これをなくすにはどうしたらいいでしょうか?

A:怠けることは、こころの本来の状態です。だれかに特別ある、というモノではない。俗世間の判断で「あの人は働き者」「あの人は怠け者」と人を区別できるが、怠けは誰ものこころの中で寝ているものです。粘り強くて、なかなか取れない。
 なまけの衝動によって、我々は二つの態度を取ります。
1)本来が怠けだから、怠けて生きる。結果として、どんどん暗くなって人生を失敗する。
2)怠けの衝動から、「なんとかしなくちゃ」と、つねに忙しく何かやってしまう。頑張り屋さんに見えるが、その人から仕事をちょっと取り上げてしまうと、とたんに不安になってしまいます。それも結局、怠けなのです。それなりに結果はあるかもしれませんが、成功した人生とは言いにくい。自分でも何をやってるのかわからない。
 人間には、怠けたい、怠けたいという衝動があるのですが、実際になまけてみるとすごく苦しいのです。
 ちょっと手を抜いて怠けた所で苦しくなって、仕事もできなくなってしまう。
 では、どうすればいいでしょうか。なまけは粘り強く心の中で寝ている煩悩です。甘く見ちゃダメ。ものすごい強敵なのです。
 怠けを絶つ簡単な方法はありません。分かっているからといって解決するわけではない。だから正しく、適切に対応しないといけない。とにかく怠けを軽く見ないことです。つねに忙しく働いている人も、(依存しているもの≒仕事)を取り上げるとたいへんなことになるのです。
 怠けによって、行動力がなくなってしまいます。生きることは行動すること、動くことです。生命はつねに動いています。心もつねに動いています。無常とはダイナミズム、動いているということなのです。つねに動いているものに、反対のエネルギーを入れることはありえない。ありえないことを心が考えるのです。だから、怠けがでてきたら最悪状態になるのです。「怠けたい」のに、「どうぞ怠けてください」と言われるとすごく苦しくなる。止まることなく動いているものを止めようとして、衝撃が生まれて自分が壊れてしまうのです。
 だから、怠けは自己破壊になるのです。でも、軽く見ているから、怠けは取りにくい煩悩にもなっている。肉体も怠けると破壊されます。心にも、怠けは自己破壊行為です。怠けることは、自然法則に逆らっているのです。動くものは動かしておくしかない。そのほうが楽です。どうしても止まらないものはそのように放っておくこと。理解する人にとって、怠けないほうが楽で、楽しい生き方になる。楽しく生きようではないかと思えば、何とかなるんじゃないかと思います。
 楽しく生きようと思って、怠けることは楽しくないんです。
 もうひとつポイントがあります。
 やみくもに動いても仕方ないから、いつでも頭を使って意味のある行動をすることです。
 二時間で出来る仕事を一時間でやって、あと一時間は寝る。そういうやり方は、決して怠けではありません。
 二時間で出来る仕事を一時間でやるためには、怠けではできない。きちんと頭を使って効率的にやらないと。こうすればもっとうまくいく、もっと早くできると、つねに頭を動かして、智慧を使うんです。どんな詰まらないことでも、むやみにやってはダメです。頭を使って楽にやること。人生全体的に改良しなければいけない。そうすると怠けは減っていきます。
 それから、文句をいう人生はダメです。「寒くて冥想できない」とか。人間はいつでも、文句をいう。言い訳する。これは、ほとんどの場合、怠けです。やりたくない仕事に見事ないいわけをつくってしまう。それは怠けから来る人間のクセなのです。
 寒いからできない、ではなくて、「ではどうすればいいか?」と考える。いつでも「ではどうすればいいか?」と頭に入れておく。
 昔の人は自然とともに生きていて、「いまの状況でどうすればいいのか?」ということしか考えていなかった。いまのわれわれも自分たちの置かれた状況でどうすればよいかと、効率的に智慧を働かせながら生きてみるのです。そのやり方で楽しみが生まれてくるのです。どんなちっさなことでも「やり遂げた」という達成感、満足感が出てくるのです。それを大切に。「やって、終わった」完了しました、という楽しみを忘れずに頑張ってみればいいでしょう。

Q:昨日のかやの木講演で、「こころ」は知ることの集合というお話を聞きました。それ以外に「意思」「自分がこうしたい」ということがあると思うのです。知ることの集合体からどうやって「意思」が出てくるのでしょうか。

A:それも結局、知ることなのです。仏教は心と心所に分けています。知ること=心。その心に(心の内容・感情という)心所がついてくると、他の知ることに影響を及ぼすのです。「知る」という機能だけだと何の力もないけど、知ることに他の「心所」が入り込んで、力を持つのです。ふつうは悪い心所ばかり入ってくるけど、それでも力が出るのです。
 悪い感情と善い感情、ということが、仏教でははっきりしています。我々はどうしても「知る」ことに感情が入り込むのです。ふつうは悪い感情が入り込んでしまう。だから、自分を向上させるのためにはまず「誓願」が必要なのです。善いことを誓願しておけば、「知る」たびに善い感情が出てきて向上するのです。
 また、付随する感情なしに「知るだけ」というのはまずありえないのです。その場合も「無知」「無関心」という悪い心所(感情)がついているのです。

Q:たとえば、「私の悩み苦しみがなくなりますように」というのは誓願ですか?

A:そうもいえますね。誓願は無数にありえる、日々あるものです。誓願がしっかりしてないと、「今日の昼飯はそばを食べよう」と決めても、お店に入ると他のものを頼んでしまったりする。釈尊は善悪をはっきりしなさいと仰いました。悪い誓願をしたら自分がつぶれます。誓願は必ず「善」のものでなくてはならない。誓願自体が善でなければいけない。表面的によさそうな誓願でも(解脱しよう、とか、社会福祉しよう、とか)、その裏に悪い感情(有名になってやろう、とか)が混じっていると途中でつぶれます。
 以前、マザーテレサの例を出しましたが、彼女は誓願がきれいだったから、成功したのです。他のカトリックの方もインドで福祉活動しているが、成功していないでしょう。また、赤十字にしても、敵味方かかわりなく助けよう、という誓願がキレイだったのです。だから母体になったキリスト教はがたがたになっても、赤十字は世界中に広がっています。
 誓願が純粋にキレイでなければいけません。それは法則から見たら決まっていることです。試験に合格したいとか、○○の会社に就職したいとか、そういう願いの場合は、「これは自分の能力を向上させる、上達させるためにそうするのだ」という気持ちでやることです。自分に克つのだと。他人とのライバル意識がなければ、成功する確率がすごく高くなります。
「私の悩み苦しみがなくなりますように」という言葉が誓願であれば、悩み苦しみがなくなります。おだやかな気持ちで、欲、見得、嫉妬で「私の悩み苦しみがなくなりますように」となると、言葉がただのオウム返しで機能しなくなる。

Q:つねに落ち着いていようとか、不放逸(アッパマーダ)で生きよう、というのも、誓願になるのですか?

A:それは素晴らしい誓願になるのです。ブッダにしかいえない言葉ですから、そのままでやれば、見事に誓願になる。ブッダの言葉のままでやれば。ブッダの言葉を改良しようとすると、結果として改悪になるのです。「ブッダが言ったんだから、不放逸で頑張るぞ」とやればうまくいきます。端的には、慈しみと、煩悩をなくすこと。ブッダ最後の教えは「不放逸に頑張りなさい(vayadhammA saGkhArA.appamAdena sampAdethA もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい)」というものでした。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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このページは、naagitaが2005年12月25日 19:23に書いたブログ記事です。

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