ダンマパダ講義のレポート 第四章 花(Dhp IV: puppha-vagga)57

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IMG_1953 本日ゴータミー精舎で開催された、スマナサーラ長老によるダンマパダ(法句経)講義のレポートです。その場で取ったメモをまとめたので、文意を取りにくい点、意を尽くしていない点などあることをご容赦ください。すべての文責は掲載者(佐藤哲朗)にあります。

斜体( )の箇所は、かなり自信のない?掲載者の解釈です。

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原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟
アルボムッレ スマナサーラ
佼成出版社 (2005/11)

57 tesaM sampannasIlAnaM appamAdavihqrinaM
sammadaJJA-vimuttAnaM mAro maggaM na vindati.

57 彼らの、すなわち戒を身につけ、不放逸の生活をし、
正しい智慧によって解脱した人々の道(行く末)を、もはやマーラは見つけることは出来ない。

●tesaM
 彼ら(聖者たち)

●sampannasIlAnaM
 道徳・戒律を完成した人々

 道徳とは何か?ということは諸説紛々ですが、仏教では明確な定義があります。つまり「身体の行為」「言葉の行為」を守りなさい、と。それだけで、何億に及ぶような戒律すべての項目が守られます。

●appamAdavihArinaM
 不放逸に生きる

 不放逸とは:過去未来に悩まずに、今現在をしっかり知って、瞬間瞬間を生きること。

 人は現在から離れて過去・未来を生きたがる。でも、過去も未来も実際には存在しない。だから(ありもしない過去と未来を)妄想するんです。妄想してたら、智慧は開発されない。
 人間は、頭の中だけで起こる観念的な世界で生きる麻薬中毒患者なんです。麻薬中毒はその場所に坐っていても、自分が何処にいるか分からない。いくら時間が経っても、自分の頭の概念、観念の中で時間を無駄にしている。そこで何が起こっているかわからない。永遠に無知ですよ。考えて何をか発見することはできません。過去・将来に生きることをやめて、いまを認識する人が、すべてを知っているのです。そこまで心を向上させないといけない。
 生命には「いまを認識する」という機能はあるけれど、それが機能しないのです。出来事が起きているときに情報を入れていない。出来事が終ってから、(頭のなかで勝手に合成した)知識として処理してしまうのです。(合成された)知識は(そこでホントに起きた)出来事からかけ離れています。だから、「誰一人も知らないんだよ」というのがブッダの言葉です。
(もっとも、いま現在、きちんとデータを集めて、あとから処理してもいいんです。一部でもはっきりデータを知っていることにはなります。)
「知る」ことが「命」であり、「知ること」が「生きていること」なのに、それをしていない。とんでもない矛盾です。
 知るものが生命であり、しかし生命は如実に知ることをしない。…微妙なことを言っています。
 知っているけれど、知っているものは事実ではない。
 その矛盾的な間違った生き方を変えるのが仏教です。
 一方、世間にある形而上学は無知な人の思想なのです。

●sammadaJJA-vimuttAnaM
 正しい智慧によって解脱した人

 以下のようなことが言えます。

 ありのままに観ていない→ウソを知っている→知識が生まれます。
 ありのままに観る→事実を知っている。→智慧が生まれます。

 存在しないデータから得た知と知識:放逸の人
 存在するデータから得た知と智慧:不放逸の人

 不放逸の人は智慧を得るのです。智慧を得た人が解脱します。

●何で解脱するの?

 知識によって執着するのです。よい・わるい、ほしい・ほしくない 発展しなくちゃ・守らなくちゃ、美しくならなくちゃ… いろんな主義主張妄想が生まれます。
 捏造したデータを知ることで、知識が生まれて、すごい束縛執着が生まれるのです。データを捏造しないでありのままに知ると、知識ではなく、智慧が生まれます。
 知識のひとかけらも、ホントは役に立たないのです。
(役立つこともありますが、ごく限定された領域です)

 私たちは過去未来に跳んで、現在を見ていないのです。でもそれを認めたくないから、(見ていたように)データを捏造「する」のです。あれこれ価値判断をするということは、過去か将来に跳んで行ったということです。「過去」「将来」という妄想概念で、データを捏造している。捏造してデータになる。それが苦しみになるのです。

 データをありのままに見ることで、知識ではなく智慧が生まれます。
 智慧からは安らぎが生まれてきます。智慧によって、執着がなくなるのです。

●ありのままに観るとどーなるの?

 現在の瞬間で物事を観察すると、ホントにこの世は何者かと、価値判断入れないで観ると…

 ありのままに観て、「捏造」することをやめて、世の中って何? 自分って何? と分かった。麻薬中毒で過去・未来に跳んでいくのはやめた。事実を知った。これまで見ていた世界は夢なんだぞ。そうやってブッダは堂々と四つの真理、四聖諦(苦・集・滅・道)を語ります。

 さて、妄想だけ知識だけに生きている人がなぜブッダの説法で「分かった振り」をするのか。「知るもの」=「生きもの」なのに、知らないのです。なのになぜ、知ったふりをするのか。

 ブッダは「真理ですから、捏造してもしてもしきれません」と仰います。隠しても覆い隠しきれないものが世の中にあります。いくら頑張っても隠せない。

 戦争中は情報を捏造して流布することは容易。しかしどこまでも騙す、ということは無理。どこかで真実が見えてくる。観察能力があれば、苦労しなくてもすぐに見えます。記事一つ見ても分かる。記者本人の意図も。出来ない人は複数のソースをあたって苦労しないと…。

 ブッダの教えが何故分かった気がするかというと、「事実」ですから。いくらウソの情報で処理しようとしても、いくらか残るのです。だからお釈迦様は、「真理は遠慮なく言ってやれ」という態度でした。相手も、最初は反論しても、結局ひかえる羽目になる。「これは事実ではない」と、お釈迦様に向かっては言えない。微妙にでも常識があれば、負けることになります。

 でも、教えてくれているのに、悟りに至らない。過去・未来に生きているから知識しか生まれないのです。仏教を「勉強」しても知識しか生まれません。知識は苦しみしか作らないのです。

●vimuttAnaM
 解脱せる

 不放逸に生きる人は、ありのままに無常を観て、執着が消える。執着するものではないのだと。それは知識ではない、智慧なのです。

●mAro maggaM na vindati.
 人々の道(行く末)を、もはやマーラは見つけることは出来ない。

 マーラは「俗世間」と受け取ってもいいのです。捏造したデータを正しいと思って眠りこけている俗人は知ったもんじゃありません。概念持った人には、悟った人の境地は知りえない。完全に、俗世間の基準とは関係なくなっているのです。

 言語の範囲、知識の範囲、一切概念の可能な範囲※、すべて超えています。

※…例えば「無限」という概念は経験ではない。頭を働かせて、いくらでも存在するか分からないものの存在を発見することも出来る。悟った人の境地は、論理的に数学的に成り立たせようとしても無理。人間の思考はそこまでです、といわれるとそこまでなのです。マーラも知らん、とゆーのはそうゆーこと。

 魚は水のなかの世界しか知らない。無理にでも陸に上げてみれば経験はできます。しかし、魚にとっては地獄でしょう。魚に訊けば、「陸上というのは明らかに地獄ですよ。一秒でもよい感触はない。ふれるものはすべて苦しみ。灼熱に焼かれて…」と答えるでしょう。涅槃について、我々はその程度にさえ知ることは出来ません。

 なぜなら…人間の「知る」ということはデータを知らないでいることを「知る」ことにしているのだから。無知を「知」としているのだから。

●57偈の因縁話:

 ラージャガハ(王舎城)因縁。ゴーディカという長老がイシギリ山の洞窟で熱心に修行を頑張っていた。彼は禅定状態(サマーディ)をつくるのですが、先天的な病気のせいで?すぐにサマーディがなくなってしまう。心が元に戻ってしまう。これはたいへん苦しい状態でした。彼は7回目の挑戦をして、サマーディをつくった。壊れる前に自殺するぞと考えた。なぜか? サマーディすらないのなら、俗人だからどこに生まれるか分かんない。せめて来世、梵天くらいにでも生まれたい…。そこでベッドに横になって(異説あり)かみそりで首を切ってしまったのです。

 そこでマーラ(化他自在天)が慌てた。比丘は身体に一切執着がない。だから、首を斬ってから死ぬまでにヴィパッサナー修行をするに違いない(それまで、ゴーディカ長老はサマーディ瞑想しかしなかったのです)。「やべ、悟っちゃうじゃねぇか」とマーラは慌てたのです。マーラは生命については心配しない。でも、人間が進化しようとしてヴィパッサナーに入るとじっとしていられない。自分の支配範囲から逃げちゃうんじゃないかと。マーラは自殺をやめさせるぞと決意した。しかし、長老の意思は固いから、自分の話しは聞いてくれないだろう、と、お釈迦様に言いつけに言った。普通の人間の身体をつくって、大雄よ、云々賛辞を述べて、「偉大なる人よ、あなたの弟子ひとりが死に掛けてます。死を期待している。早く止めさせてください!」と釈尊に伝える。「これは認められないでしょう。…怠ることなく修行している人が、有学のままで(修行完了しないのに)死んでしまったと、人々に知られることは…」

 修行にはかなんだ人が自殺してしまったとすると仏教にはダメージでしょう。ブッダはマーラの意図を見破りました。人間のホンネは上手に演技するほど分かりやすいのです。表情の反対ですから。

 釈尊「智慧のある人々も(場合によって)そういうことをしますよ。彼らは命に対して執着ない。渇愛をすべて脱して、ゴーディカはいま涅槃に入りましたよ」とマーラに答える。

 釈尊はゴーディカ長老がいた洞窟に比丘たちと行く。マーラは、長老がどこに生まれ変わったか調べた。

 人間の認識範囲は狭いので、だいたいその辺に生まれ変わっちゃうんですよ。だから認識範囲は広くしておかないと。特に日本は人間の繁殖能力がなくなっているので、死んだら餓鬼とか幽霊になっちゃいます。どこの国でも(認識範囲の狭さという弊害は)同じ。口で何を言っていても、みんななかなか国際人にはなれないのです。

 マーラはあちこちを調べる。黒い煙のような形になって、ゴーディカの行方を調べている。どうしても知りたい。次に子供の形をとって、お釈迦様に聞く。「四方八方上下(無色界の瞑想をしない限り、生命は空間をとっている。悟ってなければマーラには分かる。ゴーディカ長老も高度な禅定をマスターしたわけではなかったし見つかるだろうと)調べたけど、ゴーディカさん見つかりません。ゴーディカさん何処へいったのでしょうか?」

 釈尊「その賢者は、禅定を目指して頑張っていた人である。昼も夜も精進しました。命には何の執着もなかった。マーラの軍隊に勝って、再び生まれることはない。渇愛はなくなりました。ゴーディカは涅槃に入ったのだ」と。
 
 マーラは敗北のショックに、持っていた楽器(ヴィーマ。子供に化身しても楽器は持っている。だからすぐばれる。神と言ってもそんなもの。けっこうバカですよ。人間にはなんもアドヴァイスできない)を落として消えてしまった。

 短い言葉で悟りのプロセスをを説明している偈でした。

●質疑応答

Q 人間は見せたい顔と裏の顔があると。ホントの自分というのは、自分が思っている自分と反対くらいと思った方がいいのか?

A いつでもそんなもの。ホントの自分って何?感情の奴隷で、極端な無知、自我しかしらない。自分の認識範囲いがい、ぜったい知りたくない。でもその極端に暗い自分では何ひとつ得られないことも知っている。だから演じる。演じることで何とか自我が保たれます。「ああよかった」と自我に栄養が入る。自我以外何も知りたくないのがホンネ。でもそれを認めていない。
 考えると、ヴィパッサナーをやっているつもりで自我に栄養を与えていることになるのです。

Q マーラにとって、人間が悟らないことに何か利益があるの?

A 「世間(この偈ではマーラと表現している)」は悟らしてくれないでしょう。悟らない方向へ応援するでしょう。マーラという神のことはよく分からない。悟ることだけはやめて頂戴、という神。他の善行為は応援する。徳も積まずにヴィパッサナーだけやっちゃうと邪魔する。神話的には、一切生命のトップですから、自分を屁とも思わないと気になる。独裁政権だとちょっと悪口言うだけで殺す、そんなもの。違う説明も持ってますが、ちょっと言いたくない。理解範囲を超えているでしょうから。仏教から言ったら、周りの環境はみなマーラ(解脱にとっては)です。だから三帰依するのです。仏法僧だけが味方です、あとは足を引っ張るだけ。

Q 慈悲の瞑想を唱えるときに気をつけること。唱える調子とかありますか?

A そんなのは気にしないで。自分の好きなようにやればいい。一人でやるときは。みんなでやるときはそれなりにあわせること。みんな反対をしますけど。
 精神的に落ち着くような振動を脳に与えるようにやってください。

Q 知り合いから「ホントの自分って何だろう?」と聞かれた。その時その時、出てくるのが「自分」だから、ホントの自分なんか気にしないでいいと答えた。でも「事実を見たくないという気持ち」がいつもあるのかなぁ…と思うと心が重くなる。だから、最近は……うんぬんかんぬん。

A知らん、私は。ただの感想ですね。自分はこんなものだ、と固定して見ること自体が間違い。その状況に演技で反応する自分を観察すれば、何とかなるということです。
 世の中のこと(自分のことも世の中のことでしょう)その時その時自分を演じる。一貫して何を演じているのかを見ると、ある程度「自分」が見える。しかし、それが固定した自分というわけではない。演じるのは守りたいものがあるから。何を守るの?そんなもの何もない、というのが仏教。自我があるとしたらたいへん。守らなくちゃいけないから。あると思っているのですが「ない」という事実を発見すると、言葉超えた状態で楽になる。自我を守るために欲かいたりいかったりする。守る自我がなければ、欲も怒りもない。正しく戒律を守る人になる。

Q 世の中の情報などを正しく知る方法

A 知る能力がなければ、知る必要はない。どうせ正しい情報は言ってくれない。瞬間瞬間自分を観察すれば、自分というカラクリが見えてくる。そこがはっきり分かれば、みんな人間だから、違うことやるはずがない。その公式を当てはめると、見えてくるのです。

Q 自分がわかれば分かってくる?

A そう。すごく簡単です。

Q ひとりで三帰依をするときの言葉はどうすればいいでしょうか…

A 自分だけのバージョンでいいんです。三帰依します、というだけでは三帰依になりません。三帰依というのは、「仏法僧は私の人生の先生だよ」と認めることです。納得いくまでやること。納得したところで「帰依」になるのです。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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先週は出席できませんでしたので、佐藤さんのレポートを読ませていただきました。ありがとうございました。

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このページは、naagitaが2005年12月10日 23:29に書いたブログ記事です。

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