ヴィパッサナー冥想会でのQ&A

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62520065 今日はゴータミー精舎にて、スマナサーラ長老によるヴィパッサナー瞑想と法話の会が開催されました。たまたまPCを使って質疑応答の様子をメモしたので、以下ご覧ください。あくまでメモなので、分かり難い点はご容赦くださいませ。

11/27ヴィパッサナー冥想会 ゴータミー精舎 メモ(文責:佐藤哲朗)

Q:生きていることに意味がない という言葉の解釈について。

A:生きていることに意味がないことは真理です。事実。あれこれ解釈はできない。これは真理の世界の事実。これは「何のために生きているのか?」という問いへの答えなんです。
「死んでないから生きている」だけ。それ以上考えられない事実。
「無駄」というのは過去への評価。結果がなかったでしょ。生きることは無駄ではない。意味がないだけ。意味がないというところで、瞬間瞬間意味があるように人生を転換すること。妄想するとまったく違う意味の単語を同じように扱ってしまう。それが危険です。
 子供と遊ぶこと。子供の遊びに意味はない。でも無駄ですか?無駄ではない。
 何か目的があって生まれた、というストレスを感じる必要がない。
 大乗仏教には、「私たちは衆生を救うために生まれた」という思想があるそうです。でも、そんなこと信じちゃうと、とんでもないストレスを感じる。ただの人間に「衆生を救う」なんて出来るの? イエス様にもできないことなのに。やっと仕事して家族を養っている人に、どうやってできるの?
 だから私は、その人に向かって「衆生を救うといっても、でも、できないでしょ?」と一言いった。これって完全な矛盾です。もしも法華経信者が衆生を救うために生まれたなら、そのくらいの能力がついているはず。ふつうの人間にそんなこと言われても、気休め。人々にとっては迷惑。頭よくないのに説法したり教えたりするのは迷惑。お互い説法するばっかりで教えを実践する人がいなくなる。結果はゼロ。妄想の結果は矛盾でゼロになる。自分の能力からやれることをやればいい。自分についている能力で人類に貢献すれば、それで楽に生きていられる。誰一人似ていない。一人一人ユニークな存在。何か貢献できるものがあるはず。自分にしか出来ないことをすればいい。そうすりゃ楽に生きていられる。だから私は生きることは無意味ですよという。あるなら生まれたときに知っているはず。
 教えられたことに納得することがある。「友達とケンカしてはいけない」といわれると子供は理由も聴かずに納得する。「なんで?」とは聞かない。それが本来の姿だから。「あなたは**のために生まれた」といわれても納得いかないでしょ。
 穏やかに明るくストレスなく生きていれば、心がリラックスしていれば人間は凄いことができる。あれこれ概念を叩き込むほど心が硬くなる。リラックスできなくなって能力が発揮できなくなる。ピアノの発表会でもあれこれ言われると子供は身体が硬くなる。リラックスして自分の家のようにやればすごくうまくできるのに。自分の能力発揮できると気分がいい。人の役にも立っている。自分の人生不安なく生きていられる。その一番大事なことを壊してしまう。「目的があって生きている」とか。
 西洋の宗教とか。迷惑ばかり。いいこともしているけど、悪いことが際立っている。情報管理でいいとこしか見せようとしない。アルジャジーラも西洋のテレビもウソ合戦。第三者的に見れば、真実の一端は見えるはず。自分と意見が違うから潰すぞ(例:ブッシュ大統領)。
 言いたいのは、我々は情報を知らないだけで、いまも「目的あって生まれた」という宗教が人々を破壊している。イスラムもキリスト教も。これがいいとは思えない。
 もっと根本的に科学的に見ると、私たちはそんな目的あると知ってるのか? もっと具体的に自分の生き方を観察してみると、わかるはずです。目的がないとわかります。その場その場何かやっているだけ。なぜ子供を育てるのか、生まれたから。なぜ食べるのか、お腹がすいたから。それだけのこと。そんな大胆なことってない。シンプルです。なぜストレスたまって怒りで生きているのか?精神的に病気になる、能力発揮できない、どんな能力があるかも分からない、人に迷惑かけてしまう。
 そんな難しい仕事は誰もやってないですよ。どんなバカにも出来ることしかやっていない。そんな難しかったら仕事にならない。だから仕事でストレスなんて、どこかおかしい。考え方が。
 シンプルな人生なんです。目的があると思うとストレスが溜まる。しかし目的があるという自覚がない。妄想しか何もない。妄想で生きようとすると必ず悪い結果になる。真理に逆らってはいかん。妄想に堕ちるな。事実をありのままに眼を覚ませて生きればいい。それがブッダの言葉。
 そのときの気分で生きている、生まれてから死ぬまで。目的、意味がない。だからこそ無駄にならないように生きてみればいい。その場その場で対応していけばピッタリ。無駄ということはなくなる。目的つくると強引な概念になる。仏教の世界で説法する場合はエネルギーの法則、因果法則。何かがあっていっちょ終わりではない。無限に出てくる。生きることにキリはない。エネルギーの回転にストップはない。
 その場その場で対応して生きても疲れる。「じゃぁ解脱することを目的にしなさいよ」とブッダが教える。別にそんな気はない。だから自分で勉強させる。自分を見させる。それでやっぱり解脱するしかないんだ、と納得する。それですぐに結果が出る。そういう気持ちになるまでは時間がかかる。そこからは早い。
 佛教から見れば人生に目的がある。「解脱すること」が目的です。でもみんなそれも知らない。無知だから。「解脱」というのは仏教が強引に与えてる仕事です。でも自分で研究すれば必ず納得する。他の目的を言っても納得できません。「人類を救う」と言っても自分ひとりさえ救えないのに。悩みいっぱい感じているのに。自分を救えない人が、他人を救うなんていう矛盾は、成り立たない話。妄想だから矛盾から矛盾をつくって踏ん張っているけど、何もうまくいかない。妄想を捨てて客観的に物事を見れば、頭に抱えきれないほど抱えている精神的な重さがなくなってしまう。リラックスして生きられる。
 意味がないんだから、クヨクヨすることはない。
 次の瞬間にチャレンジすればいい。

Q:うつ病の人の話。妄想していると善業がなくなるの?
A:なくなる。妄想すること自体悪行為。真理でないことを考えるのだから。八正道からいうと邪思惟です。

Q:サッレーカスッタの偈について 意味がダブっている?
A:佛教の道徳項目をセットごとにまとめているので、ダブることもある。

Q:サッレーカスッタの偈には、なぜ不飲酒が入っていないのか?
A:モノで語るとキリがない。だから出家の戒律は無限にあるの。内面的に心の状態として語ると簡単。お釈迦さまから戒律を一個にまとめてもらって、「心が汚れないように守りなさい」だけ守って、悟ったお坊さんもいる。

Q:私はテーラワーダ仏教で救われた。でも自殺する人何万人もいる。救われる人、救われない人というのは業の働き?
A:真理を知った人にはそれを知らせる義務があるんです。みんなに教えてはあげる。それからは受け取った人の責任。その病気に効く薬があるのにあげなかったならば、あげなかった人の過ちになります。だから、生命の苦しみを解決する真理をみんなに伝えてあげる。でも本人がやりたがらなかったら本人の責任。それは業でしょうか?というと正しくない。運命論になる。そうではなく、妄想さえ止めればみんな気楽で元気いっぱい生きていられる。みんなその能力は心にある。そこを無駄にしているのは本人の妄想のせい。不可能ではない。頑張ればみんな「救われ」ます(あまり使いたくない言葉だが)。方法は知っている教える義務がある。やるやらないは本人の自由。習慣的になっている場合は根深くてきついがそれでも挑戦したほうがいい。挑戦くらいはしろ、というのがブッダの教え。
 母殺し父殺しなど大罪を犯してしまうと今世で悟るのは無理という。でも、それでも挑戦しなさいという。預流果の聖者(ビンビサーラ王)を殺したアジャセ王のケースある。父殺しでも決して「破門」にはしなかった。アジャセ王は釈尊のところに来て、こころの平安を得た。今世で悟れないまでも、ブッダとであったことで道は開けます。死ぬまで一生懸命努力した。修行して悟ることはできないけど、それ以外、佛教のために何でもする。歴史に残る偉大なる王となった。だからどんな状況でも挑戦しないといけない。
 危険なのは、挑戦する能力さえなくなってしまう。すべて遮断してしまう。ケイタイの電源くらい入れておいて欲しい。電源を切っちゃったらどうしようもない。
 救われる人、救われない人、と定めているわけではない。世の中をみれば具体的に、上手く行く人行かない人、分けられるけど、情報だけは与えてあげる。情報を与えなかれば頑張りたい人もチャレンジできなくなる。梵天勧請のエピソードはそのためにある。どんな時代も同じこと。真理のメッセージは教えてあげるけど、強引に折伏したり、勧誘したり、修行させたりすることはない。そんなことしても結果がないから。
 ご馳走はつくってあげるけど、食べるくらいは自分でやらないと…。そこまで怠け者はどうしようがないでしょう。心は同じだけど、それぞれ制限があって生まれてくる。身体という制限、各々の身体の制限に心も左右される。でも心という観点から見れば、おなじ。ミミズだって厳しい制限のなかで頑張ってますよ。ましてや、人間なのにチャレンジできない、なんて情けない。

Q:解脱について 解脱した人に自他の区別はあるのか?
A:俗世間的な概念・単語は使って生きています。ごく普通です。心は別々です。別々だけど同じことを知っているから話は通じます。

Q:瞑想のやり方。歩く瞑想やってるけど集中力がない。足の裏に集中しているのだが、いらいらしてくる。ストレスが溜まった感じになる。これで瞑想になってるのか?ゆっくりやりすぎ?
A:「足の裏」ってところに問題ある。歩行瞑想では、リラックスして、足全体の感覚を全部感じながら歩くのです。自分にとって心地いいスピードでやらなければ進まない。挑戦するつもりで厳しくてもやってみる、というならば明るい気持ちになります。

Q:慈悲の瞑想 大好きでよく唱える。親しい人々、のところで異性の友人を思ってもいいのか?やっぱ同性じゃないとダメ。
A:あまり具体的に思い浮かべないほうがいい。あまり具体的にやると範囲がせまくなる。具体的に、というのはそういう指導が適したタイプの人に向かっていうこと。一般論でいうとグチャグチャになっちゃう。慈悲の瞑想もホントは個人ごとに指導するものです。
 人間には、妄想型、怒り型、無知型、論理型、信仰型、智慧型おおざっぱに6つ。そのなかでまた細かい性格分析がある。いま個人的なつきあいというものはない。私に直接あたってくる人は成長早い。べちゃべちゃ喋ってるからと言って個人的に教えて欲しい、という気持ちがあるわけではない。慈悲の瞑想を指導する際もいきなり「私の嫌いな人々が」からの人もいるし、「親しい人々が」からの人もいるし。テーラーメイドの場合は一行になる。広く語る場合は、いちばん普遍的なことばを紹介して挑戦しなさい、ということしか成り立たない。親しい人々 まずは 親、年上の親戚、兄弟、他の親戚、という順番。広く取って制限しない方がいい。

Q:「私が幸せでありますように」これは自分が幸福だと気付いていない人のための修行?
A:人間は自分に気付いたらその時点ですごい幸福。気付いていないから、ゴチャゴチャ考えて悩んでいる。「幸福」という言葉はだれでも知っている。でもそのイメージじゃないんです。「こうなったら幸福、楽しい」という各自のプログラムがある。それは妄想であって、それに従ったら不幸になる。幸福だと思って感じているのは苦しみなんです。若い人ほどイライラしている。大人ほど人生の苦しみはないけど幸せではない。何とかしないと、というイライラがある。**しなくちゃ、というのは、「**しなくちゃ苦しい」ということ。「**しなくちゃ」の先にある刺激にフォーカスしているから、楽しく見えるだけ。だから、何か取り上げると一番怒り狂うのは若者。お化粧道具なんか女の子から取り上げたらたいへんなことになる。人間は結局苦しみを感じている。幸福は単純。「**しなくちゃ」というものが無い状態が幸福。いまの苦しみ、悩みがない状態というふうに定義する。佛教で気をつけているのは、幸福のほうにリミットをつくらないこと。走れるところまで走ってください、進めるところまで進んでくださいと。2キロ走ったら合格、にしちゃうと本人がもっと走れるのに止まってしまう。自分が決めても、他人が決めても。だから佛教では、じゃぁ、苦しみだけ落としてください、という。そういえばどこまでも成長する。
 どんな生命も「幸福になりたい」というのが衝動。でもそれに気付かない。別のことをやっている。でも衝動は「幸福になりたい」である。正直にハッキリして欲しい。人を怒りたくなる。ケンカしたくなる。それも「幸福になりたい」と思ってやっている。でも、「それで幸せになるでしょうか?」と考えて欲しい。そうすれば、間違った道が治っていく。
 ロボットみたいにマニュアル化した仕事でもちょっと慈しみを持てばストレスはなくなる。「私は幸せでありますように」は生命の本能。それを忘れてはならない。他の生命も同じだと気付くはず。そうするとすごく立派な安らいだ明るい人間になれる。俗世間では悔しいことはたくさんある。そういう気持ちもなく生きていられる。欲が出ない、というより怒り憎しみ嫉妬という激しい感情が機能しなくなくなる。欲の奪い合いが、分かち合いに変わる。奪い合いは苦しい。分かち合いなら楽です。慈悲の瞑想、成功したら欲が消える。

Q:幸せでありますように、というのがひっかかる。「幸せで生かしてくれてありがとう」では?
A:自分にはいいけど、他人には成り立たない。「お母さん、幸せで生かしてくれてありがとう」では足りません。借りが返せない。「お母さんが幸福でありますように」と願うこと。エネルギーが生まれます。ただ、ありがとう、感謝します、ではエネルギーは生まれません。単なる日本の一般常識の言葉。本気で言っている人は幸せになるが、逃げにも使う言葉。「お詫び」も同じ。感謝して終わりだったら逃げ。自分のこころをきれいにして幸せになるなら義務は生じない。でも、社会に依存して幸せになっているのなら、幸せになればなるほど、社会に対して義務は生まれるよ。

~生きとしいけるものが幸せでありますように

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もうこの言葉だけでわたしはスゴイ刺激を受けました、なんていい言葉なの。なんだかニ 続きを読む

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このところ数回にわたる経典解説の試験ライブ放送で、カタカタとキーボード入力の音が入っているようでした。
 テープ起こしをするならば、そのような場でやらないで後からにされたら良いのに、一体どういうお方なのかな?と思っておりました。 が、
 このような要点メモをPC入力しておられたとは思いませんでした。

 長老の貴重なお話を、迅速にお伝え戴き恐れ入りました。ありがとうございました。

生きとし生けるものが、幸せでありますように。

メモありがとうございました。今後ともご活躍を期待しております。

今回法話速記レポートを載せたらゴータミー精舎日記のアクセスが急増してびっくりしました。「求められていた」ものってこーゆー記事だったのかな、とも思いました。しかし掲示板を見ると、速報性の反面の舌っ足らず(僕の)でかなり混乱された方もいらっしゃるようで…。聞きながらまとめるのは、自分の理解のためには、抜群にいいです。キーボードの音は、カメラが僕の真横に来ていた所為ですね。前回はカメラの後ろに坐ったので、多少軽減されたと思いますが…。テンションが続いたら、また速記やってみます。では、お幸せでありますように。

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このブログ記事について

このページは、naagitaが2005年11月27日 23:07に書いたブログ記事です。

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